琵琶湖一周歩きVOL.11
近江塩津から高月まで

(2002.5.6)

 琵琶湖周遊も一番遠いところが残っている。今日は塩津(賤ヶ岳)にするか永原(海津大崎周遊)にするか迷いましたが結局塩津に決める。守山からは直通電車はない。8:34発の米原行き普通列車に乗ったが、米原で連絡があったのは20分あとの新快速長浜行きだった(^_^;)。30分ほど長浜駅で待って近江今津行き普通電車に乗る、10:20ころやっと近江塩津につきました。 ここは昨年永原から葛籠尾半島を周遊してついた駅だ。今日はここからスタート、湖辺の道を賤ヶ岳に向い歩きだす。しばらく国道8号線を歩いて塩津街道の町並みに入る。




近江塩津駅から敦賀方面(北)の眺め




近江塩津駅と並行する国道8号線(北方面)



 ・・・・ 塩津街道 ・・・・
 それらしい雰囲気があっていいなあ!!このあたり冬は雪国なんだろうな!道路の中央に凍結防止水の噴出すノズルが続いている。塩津歴史資料館(右端の写真)があったが閉まっている。



塩津神社の境内から琵琶湖を見る



海抜200mくらいのところに愛宕神社跡という表示があり琵琶湖の展望がある。

 塩津街道の町並みを抜けると湖岸を走る国道8号線にでた。そこに塩津神社がある。お参りをした本殿の右手に旧愛宕山登山口という標識がある。さっそく寄り道することにして登ってみました。愛宕神社跡は送電線の鉄塔がありちょっと開けていて琵琶湖が展望できる。実質100mくらいの登りなのに今日はとても暑く汗が噴出す。ここで昼食のおにぎりを食べながら小休止する。
 12:00出発。国道8号線はすぐトンネルに入り飯浦に至る。トンネル手前を右折、湖岸沿いに半島を回りで飯浦へ向かう。湖岸を歩くとやがてこれから歩く低山が見えてくる。



 飯浦の奥琵琶湖ドラブインからの眺めです。遠景に葛籠尾半島(奥琵琶湖パークウエイがある)と生竹島が見える奥琵琶湖ドラブインについた(12:50)
 ここから生竹島行きの船が出ているが、片道40分と聞き今回はパスすることにしました。まだお腹がすいているのでラーメンで腹ごしらえする(^_^;)




山本山
今日のゴールとしている。






 このドライブインのあるところは飯浦という。船着場を見に行くとそこで面白そうな漁法に出会いました。この漁法は琵琶湖に初夏を告げる”追いさで漁”だ。2人チームで、黒い羽根みたいなものがついた釣竿みたいなもので水面をたたき魚を網のほうに追います。その人の合図で大きな網を持った人がよいしょと引き上げる。網の中では小鮎が勢いよく跳ね回っている。その作業を繰り返しながら波打ち際を行く。魚を網のほうへ追い出すのはなかなか熟練技だなあと見とれていました。

 飯浦からは湖辺の道を賤ヶ岳へ向かう予定だが道がわからない。飯浦の集落に入ってそこで作業をしていた地元の人に聞くと集落の奥から登る道があると教えてくれた。



この道路の奥から登山道になる。





 幅の広い登山道というより昔の生活道ですね。足元には奈良の柳生街道みたいに石畳がありました。







 写真はアチラ坂峠、右の地図の現在地です。直進すると余呉湖へ0.8km、左へ行くと奥琵琶湖ドライブイン2.2km、右は賤ヶ岳0.7kmとある。飯浦港が北国から来る人たちでにぎわっていたころ余呉から飯浦へ通じるこの坂道をアチラ坂といわれていました。この峠にある地蔵はもともと飯浦集落あったが峠を越えてくる多くの人と会いたいのでここに安置するようお告げがあったと伝えられている。



アチラ坂峠の地蔵



アチラ坂からは見通しの聞く尾根道



 余呉湖賤ヶ岳山本山歩道は、余呉町下余呉から標高432mの賤ヶ岳を分岐として木之本町飯浦と湖北町津里までの2コースに分かれ約12kmの自然探勝道です。この地域一帯は、スギ、ヒノキの植林地とアカマツ林で林内にはミズナラやサイゴクミツバツツジなど日本海側の山地でよく見られる植物が多く育っています。賤ヶ岳の古戦場をはじめ、古保利古墳群や山本山城跡など史跡探訪が楽しめる。



賤ヶ岳頂上(14:00)
展望が素晴らしいでした。遠望の山は伊吹山



余呉湖の眺め



賤ヶ岳より山本山への縦走路



葛籠尾半島と竹生島






14:20頂上を出発。縦走路に入ったところに賤ヶ岳の合戦で戦死した兵士を祀った石仏を一ヶ所に集めているお堂にでる。ここでは毎年4月の祭りに年一回、里人が法要を行なうとある。



中央後方が賤ヶ岳山頂



三角点

どんどん下って登り返したところに樹林を伐採した広場に出る。振り返ると賤ヶ岳が見える。少し行くと小高い頂につく。縦走路の真中に4等三角点がありました。


 整備された歩きやすい道だ。新緑の緑色がとても鮮やかで気持ちがいい。




木々の間から山本山が見える。途中古保利の古墳群に出会う。西野山を中心に129基が存在し、これらの古墳は4世紀前半のもの。大陸から若狭を通り近江へ文明が伝えた渡来人がここに住みつき当地を支配したと思われると記されていました。
 ここでであった分岐の道標に山本山2.7km、西野集落0.8km。この道標に興味のある案内が、そこには西野水道(近江の青の同門)と記されてある。見てみたくなり山本山への予定を変更右折して西野集落に向かう。

 ハプニング:農道にでたが高圧電線が設置してあり、しかたなく飛び超える。そこには私有地なので進入禁止とカンバン、道標にしたがって下山したのに・・・・どうなってるの



 今は使われていない第一期工事の排水路は弘化2年(1845)に完成した。


第一期工事の指導者 恵荘上人




 木戸の道

 古代における湖上交通は北陸と京都大阪を結ぶ重要な交通手路であった。塩津港や大浦が栄えたころ当区西山から山を越え木戸に至る山道は物資を運ぶ重要な道であった。 江戸時代後期の文化4年(1807)、天保3年(1832)、同7年(1836)に当地を襲った大洪水と大飢饉により西野は壊滅的打撃を受けた。こうした参上を救うため、西野充満寺住職恵荘は、西山を掘り貫き水道を作り、余呉川の水を琵琶湖に流すしかないと考えた。工事は天保11年(1840)より着工され多くの労力・経費を費やし、幾多の苦難を乗り越えて弘化2年(1845)に水道は完成した。水道は「近江の青の同門」と呼ばれ、長さ220m、幅約1.2m、高さ約2m、古生層の岩盤からなる山塊をくり貫いてつくられた排水用の水路で、近世の民衆史上特筆すべき貴重な遺跡である。水道内の壁にはノミの痕が残り、水路は所々で折れ曲がりるなど、工事中に何度か方向とレベルを修正したことがうかがえる。


 西野水路を見物して今回のゴール高月駅へ向かう。写真は高月方面、後方の山は浅井長政の居城があった小谷山。(JR高月駅着 17:15)