柴田勝家の砦となった行市山

2004・7・27



 この時期の低山歩きはつらいが、ふと湖北の箱舘山から淡海湖(処女湖)方面へ行ってみたくなり出かけました。琵琶湖大橋を渡って湖西道路(有料)の終点から161号線に入ったところで昼食を買いにコンビニに入る。ついでに行き先を確認しようとザックから山渓の「分県登山ガイド滋賀県の山」を取り出したがこのコースが載っていない(^_^;)。そこで近辺の山を探すと福井県境に行市山コースがあった。戦国時代に柴田勝家の砦となった山ということで興味をひかれ歴史散歩かねて登ることに決める。
 木之本から北国街道(365号線)に入り北上、6kmほど走り今市バス停に着く。左折すると次の交差点に行市山登山口の道標があった。そこを右折して進むと毛受(めんじゅう)兄弟の墓に着く。ここが行市山の登山口になっている。
林道出会いから見える行市山



今日歩いたGPSの軌跡とルート図(左)

毛受兄弟の墓の左側に行市山の登山口と道標がある。高圧電線で囲われていて何処から入るのかと思ったら、トタン囲いの一箇所がスライドできるようになっている。ここを開けて入れとある。
毛受兄弟の墓。”めんじゅう”とは知らないととても読めない。戦跡めぐりの案内板には秀吉と戦った賤ヶ岳の戦いのとき数万という柴田勝家の軍勢が陣取った砦が行市山にかけてある。賤ヶ岳合戦の敗戦後この地、林谷山で同士300余名を率いて主君勝家の身代わりになって戦死した。
   中之谷山 原彦次郎長頼の砦
織田信長に仕え、勝頼に付属された勝山城主。この地に陣取り前田利家と行動を共にする。
深い樹林の急登を登る。少し展望があり中之谷山の白い標柱がある所から少し奥に入った笹の中に三角点があった。
南西方面(余呉湖)に展望が開ける。
中之谷山から少し行くと開けた所に出る、ここが林道出会いだ。登山道はここで中断されている、しばらくは道なりの林道歩きになる。1時間弱歩いただけなのにあまりの暑さで体力消耗、日陰を見つけて体力回復を待つ(-_-;)
ガイドブックには展望がよい林道(写真が掲載してある)とあるが樹木が茂ってこの程度しか見えない。手持ちのガイドブックは1995年度発行とあるからしかたないか・・・
林道からこの標識(別所山・行市山へ)により再び森林の中の登山道に入って行く。
 林の中の別所山は前田又左エ門利家の砦跡

織田信長時代、長篠の役により府中城主(武生)であった天正九年七尾城主となり勝家配下として従軍する。
                       史跡 別所山砦跡(444m)
 別所山は遠く鎌倉の頃より天台宗の別所山万福寺のあったところであるが、寺院は戦国兵乱の戦火により焼失している。天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦において、別所山は柴田勝家と府中の城主であった前田利長父子が僅か二ヶ月余で砦を構築したところである。
 柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より、行市山頂を経て別所山・中谷山・大池山・林谷山の各陣地は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれ強力な陣地として構築された。しかし柴田方はこれら強固な陣に依って戦うことは一度もなく、余呉湖畔で敗北する結果となった。(説明板より)

ここから急登続き、何度も休憩しながら登って行く。ここまで来ると風はひやっとして涼しい。

2時間ほどだがバテバテでやっと行市山山頂(659.7m)に着きました。

京極・浅井時代に東野行一が築城賤ヶ岳合戦の北軍勇勝佐久間盛政の陣地となった。

佐久間玄蕃盛政
柴田勝家の甥加賀尾山(金沢)の城主、天正十一年4月勝家に代わって軍を指揮し、一旦は大岩山、賤ヶ岳を制した。

下山はガイドブックのコースに従い小谷(おおたに)の方へ急斜面を一気に下って林道に出る。林道を歩き往路の林道出会いに着く。後は往路を下山して駐車していた毛受兄弟墓地に無事つきました。
頂上からの眺めも南西方向面(余呉湖方面)の展望しかない。95年度版ガイドブックの写真からかなり樹林が茂って視界をさえぎっている。

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