浅井長政の小谷山

2005・4・21



 織田信長の浅井氏攻めの砦の跡(横山城跡)から、次はそこから展望できる姉川古戦場と小谷山城へ行こうと思っていました。浅井・朝倉連合軍が姉川の決戦で敗れ、小谷城へ敗走した。その後、一時和睦が成立したが、天正元年(1573)八月、浅井氏は小谷城において滅んだ。
その夢の跡、小谷山に登ってきました。



東浅井郡湖北町大字河毛の路上から小谷山を写す。
中央が小谷山の頂上、そこからいったん右方向に下り、登り返した尾根が小谷城跡です。
右端の森は織田信長が砦を構えた虎御前山の北端

虎御前山と小谷山は国道365号と北陸自動車道が通っているだけの狭いスペースを挟んだごく接近した位置関係にありました。



小谷城跡(国定史跡)

小谷城は戦国乱世の大永四年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの五十年間、浅井氏が根城にしたところである。
 また、この城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもある。
小谷城は北国街道・中山道・北国脇往還の交通の要衝にあり湖上交通を利用すればはるか湖南・湖西・京都へ通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。

 城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸・金吾丸・番所・御茶屋・御馬屋・馬洗池・桜馬場・黒金御門・大広間・本丸・中ノ丸・刀洗池・京極丸・小丸とつづき海抜395mの山王丸を頂とする。

 城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後秀吉によって城楼・城下町・寺院等が今浜(現長浜)に移された。




登山口には駐車場があり、そこに大手道登山道があります。今回はちょっと楽をして林道を車であがりました(^_^;)







望笙峠
琵琶湖方面の展望がある(山本山、竹生島)
大手道はこの峠で一旦舗装路に出合うが再び山道に入る。今日は林道終点、番所跡手前の駐車場に車を止めました。




番所跡
小谷山頂上まで1.6kmの表示がある。
遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所。



登山道は歩き易い





御茶屋跡






馬荒い池
馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったという。西隣に馬屋があり北の柳の馬場に通じており馬関係の1画である。




家臣赤尾屋敷への分岐
右方向へ約100m行ったところに屋敷跡がある





長政自刃の碑
天正元年八月二十八日戦いに敗れた長政はこの赤尾屋敷で自刃し、二十九才の生涯を閉じた。



番所跡から約10分ほどで桜の馬場に着く。
ここは広場になっていて小谷城跡の碑と浅井家臣の供養塔がある。


桜の馬場からは琵琶湖方面の展望がある。






桜の馬場からの展望をスケッチしました。
遠方は霞んでいましたが間近に琵琶湖に浮かぶ竹生島と山本山が見えています。





新緑の木々の向こうに小谷山の山頂が見える。





桜の馬場の上は奥に本丸跡の石垣が見える大広間、山の上にこんな広い場所がつくられている


大広間
一名千畳敷という。約35アールの広さである。主殿の跡と推定され、その昔多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。礎石、貨銭、陶器片その他多数が発掘された。



大広間の奥に石垣が見える小高いところがある。ここが長政が居住した小谷城の本丸だ・・・さらに尾根上を中ノ丸跡・京極丸跡・小丸跡とつづき、この尾根のピークに山王丸跡がある。



京極丸跡
尾根は段々上になっていていて、それぞれに廓名がついている。


本 丸
鐘の丸ともいう。石垣をめぐらした約12メートルの高所に約30m×25mの広さをもつ、落城寸前まで城主長政が居住していたところである。
彦根城西の丸の三重櫓は元小谷城天主と伝える

京極丸
大永4年(1524)亮政が主君京極高清、高延父子を迎えたところである。天正元年(1573)八月二十七年夜半この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され小丸の久政と本丸の長政との連絡を絶たれた。

小 丸
二代目城主久政の隠居後の居所である。久政は天正元年八月二十八日信長の先鋒秀吉軍の進攻を受け鶴松太夫の介錯により四十九才を一期としてここに切腹して果てた。



この尾根のピークにある山王丸跡。



山王丸の側面にある大石垣

山王丸
山王権現(現小谷神社)の祀ってあったところ、海抜395mの高所にあり詰ノ丸と思われる。東南部の巨石による野づら積みの遺構がある。





伊吹山




分岐

六坊
二代城主浅井久政の古文書に「當城搦手」と書かれている。久政は江北支配を進める上で軍務や政務を司っていた六つの寺院が散在して不便であったためここに集めたといわれる。

鞍部にあるこの六坊を過ぎると分岐(上右の写真)がある。左へ下る道は清水谷へ(中部北陸自然歩道のコース)、直進して急坂の木段(下左の写真)を上ると約15分ほどで頂上(下右の写真)にでる。右に巻いていくと「越前忍道」とある。



頂上へは急な坂道がつづく





頂上はこのような雑木林の中、大嶽城址の白い杭が見える。

大嶽城(おおづくじょう)
 小谷山の頂上(495m)に位置している。「長享年後畿内兵乱記」によると、大永五年(1525)には小谷城がすでに築城されており、また小谷城が現在の本丸のある尾根ではなく、大嶽にあったことが知られる。大規模な砦で遺構を見ると本丸・山王丸・福寿丸等の小谷城の遺構と比較して、土塁の作り方などが古い。
 天正元年(1573)八月十三日、大嶽城は朝倉氏の援軍が守備していたが、大嶽の北にある焼尾丸を守っていた浅井氏の家臣浅見対馬守が織田方に寝返り、織田勢を手引きして攻めたため落城した。

下山は違う道(清水谷へ)を歩いてみたいが、番所跡近くに車を止めているので往路を戻ることにする。


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