駅からはじまるハイキング番外編
ぶらり大阪町歩き
D上町台地コース
2007・1・12


 
 JRのおなじみ「駅からはじまるハイキング」番外編”ぶらり大阪まち歩き”全10コースを入手しました。そのうちで一度行ってみたいと思っていた上町台地の天王寺七坂と寺町界隈を散策してきました。JR大阪駅から天王寺まで久しぶりに外回りの環状線に乗りました。青春18切符でゆっくり各駅停車で行くのに慣れてきたはずなのに、思わず駅員さんに”外回り・内回りとどちらが早く着くの?”聞いてしまいました(^_^;)。結局どちらも同時間でした。



庚申堂の正門


コースどおり歩こうと天王寺駅を出ましたが、さっそく道を間違えてしまう。四天王寺南交差点にきこの広い通りが谷町筋と気づく。筋をかえて少し戻り@天王寺庚申堂へ。

日本で最初に庚申尊が出現した地とか・・・


人形浄瑠璃の黄金時代を築いた竹本義太夫の墓で知られるA超願寺がすぐ隣にある。義太夫はよくわからないがお参りして四天王寺へ。


 超願寺前の交差点から見えるのB四天王寺



四天王寺南大門と五重塔


 四天王寺境内にある太子殿から見える四天王寺の五重塔


太子堂



天王寺鳥居前から四天王寺の西大門(極楽門)
広い四天王寺の境内を散策した後、ふたたび谷町筋の大通りへ。





C吉祥寺

北に向かって街中を直進する。
やがて右側に忠臣蔵の義士のいでたちでおなじみの”ダンダラ模様”の塀に出会う。



吉祥寺にある赤荻氏の墓



こんな四十七士の石像もありました。



谷町九丁目の交差点角にあるD藤次寺
数人の参拝者が一心に拝んでいる姿に出会いました。



藤次寺の角を曲がると下り道になる。この千日前通を西へ。歩いてきた東方向を振り返る、こんな街中にお寺が沢山あるのが不思議だ。


藤次寺
藤原氏の祈願寺として、藤原氏一門より、深い帰依を受け栄えていた・・・加藤清正が大檀主となり、金堂、伽藍、堂宇などを建立した。広大な寺域(境内)を持ち、壮観であったとあるが、今はその面影はない。中興憲遵阿闍梨の時には、如意宝珠融通尊への信仰が盛んになり、「大阪の融通さん」と称されて、多くの人々の信仰を集めている。昭和20年(1945年)3月、戦災により藤次寺は全焼したが昭和35年(1960年)に金堂、庫裡、寺務所が完成した。



真言坂を上がると朱色の生國魂神社(いくたま)北門になります。



 生國魂神社北門から真言坂を振り返る



真言坂(しんごんざか)の道標説明板より・・・

 生國魂神社の神宮寺であった法安寺をはじめとする生玉十坊が明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼荼羅院の六坊があった。すべて真言宗であったのでこの坂は真言坂とよばれた。



生國魂神社


生國魂神社

 社伝によると、神武東征の時、難波津に上陸した神武天皇が、国土の神である生島神・足島神を現在の大阪城付近に祀ったのに始まると伝える。『日本書紀』の孝徳天皇の条で「(孝徳天皇は)仏法を尊び、神道を軽んじた」とあり、その例として生國魂社の鎮守の森の木を切ったことが挙げられている。延喜式神名帳には「難波坐生國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列している。

 地下鉄谷町九丁目駅のすぐそばの生玉に鎮座。豊臣秀吉による大阪城築城に際し、現在地へ遷座された。

水戸藩士・川崎孫四郎自刃の地
萬延元年三月三日の水戸浪士による大老井伊直弼を天誅の桜田門外の変後、大阪挙兵を図り、幕史に追われて二十三日この地で自刃する。
笠間藩士・島 男也の旧居
大阪挙兵の謀議のため幕史に捕われ江戸伝馬町の獄にて死没。




源聖寺坂
この坂は登り口に源聖寺があるので、その名をとっている。付近一帯は寺町として長い歴史を持っている。齢延寺には幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢凍?、南学父子の墓があり、銀山寺には近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代・半兵衛の比翼塚があるらしいが興味がなかったので立ち寄らなかった。







寺が両側に沢山並んでいる。

豊臣秀吉からはじまった寺町造り
大阪城から南のこの上町台地一帯を城下町にするつもりで南の防衛を兼ねて集めたとか・・・





口縄坂を上から見る



松屋町筋から見る口縄坂


口縄坂の説明版より
坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付けられたという。
付近の浄春寺には歴史学者麻田剛立、画家田能村竹田、春陽軒には国学者尾崎雅喜、太平寺には医家北山寿安ら、江戸時代に活躍した先人の墓がある。また、梅旧院には芭蕉の供養碑もみられる。




写真やスケッチでよく見る口縄坂ですが、描いてみるとなかなか難しかったです。



街中歩き、舗装路ばかりなので足も疲れてきて、写真を撮るのみでゴールに急ぎました。


愛染堂の門と秀吉によって再建された多宝塔(重要文化財)

聖徳太子が四天王寺に置いた四院にひとつ。薬草を植え病人に薬を提供する施薬院がはじまり。本尊の愛染明王にちなみ「愛染さん」の名で親しまれている。


愛染堂から愛染坂を下りふたたび清水坂で上り返す。


一心堂
大きなお寺で多勢の参拝者で賑わっていました。
入り口はこんなモダンな門と変わった仁王像?が出迎えてくれます。ここのお堂を見てやっとお寺の感じが蘇ってきました。



高台にある一心寺境内から見える通天閣
ちょっと立ち寄ってみたくなり、コースをはずれて新世界へ向かう。




新世界通からの通天閣
 この向こう側(下の写真)のにぎやかさと比べてなにか寂しそうな通りでした。



通天閣にあるビリケンさん





 おなじみ「づぼら屋の大きなふぐ」がぶら下がっている。ビリケンさんもご覧お通り金色に輝いている。大阪下町の強烈な活力があふれていました。


この通天閣は大阪南のシンボルとして親しまれています。今の通天閣は二代目、昨年が50周年だったと聞きました。

通天閣の名称の由来

「通天閣」という名は、新世界を開発し通天閣を建設した大阪土地建物(株)社長であり、当時の大阪商工会議所会頭を務めていた土井通夫の「通」をとり、「天に通じる高い建物」という意味を込めて付けられたということが定説になっていました。
 大阪土地建物が命名を「政治の舞台で活躍した高名な儒学者、藤沢南岳」頼んでも不思議ではない」と判断し、これで初代通天閣が完成してからのナゾが75年ぶりに解け、空白が埋まることになったのです。




通りに立ったままで、こんな複雑なカンバンだらけの町並みは描きずらい。
数人の方たちがキャンバスに向かっていました。喧騒の町並みの雰囲気だけでもとスケッチしてみました。





通天閣展望台から
手前中央が大阪市立美術館、そのすぐ右後ろがJR天王寺駅ビルです。
一番手前の木が茂っているとこは天王寺動物園です。






通天閣から見える大阪城の天守閣
眺めは抜群でしたが料金600円はちょっと高いなあ・・・






 天王寺動物園の上を行く歩道橋から見る大阪市立美術館




 有料化された天王寺公園、以前は自由に散策できたのに・・・この横を通ってやっとJR天王寺駅にたどり着きました。


 古都といえば奈良や京都に結びつく。四天王寺が聖徳太子建立とあるのが、ちょっと不思議な感じがしました。それに戦災のためかコンクリート造りの多いこの界隈のお寺も固定観のお寺とのギャップが大きかったです。