2007・2・8
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丹波橋駅を東側に出てすぐ左折、学校を右に回りこむと桓武天皇陵へは一直線です。JR線を越えて少し行くと広い松並木のある参道です(ゆるい登り)。 |
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![]() 桓武天皇柏原陵の参道入り口 町並みから離れて静かな散歩道でした。 桓武天皇は平安遷都を断行された天皇です。 |
![]() 桓武天皇陵の奥に伏見城の天守が顔を出している。駅から15分ほどでした。ここから明治天皇伏見桃山陵までは15〜20分と書いてある。 |
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![]() 鬱蒼とした桓武天皇陵参道を明治天皇陵へ向けて歩く。ウイークデイでも早朝散歩している方が多い。 |
![]() 明治天皇伏見桃山陵 ここはちょっとした高台にあり市街が一望できるはずだが、今日は霞んでいてよく見えませんでした。 |
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明治天皇を埋葬する伏見桃山陵一帯は、豊臣秀吉が築城した伏見城跡地で、陵墓の規模は大きい。東側に位置する昭憲皇太后を埋葬する伏見桃山東陵は、旧伏見城の名護屋丸址に設けられている。 (近鉄てくてくまっぷより転載) コースでは明治天皇陵から昭憲皇太后まで行って同じ道を折り返して桃山御陵駅へ戻るが、略図のように歩いて乃木神社へ歩いてみました。 乃木神社からは再び参道に戻り、駅近くの御香宮へ立ち寄る。 |
![]() 明治天皇陵のすごい段数の石段 トレーニングしている人に出会いました。 |
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![]() 御香宮神社の表門 徳川頼房の寄進のこの表門は伏見城の大手門を移築したもので重文に指定されています。 |
![]() 御香宮の境内 神功皇后・仲哀天皇・応神天皇ほか6柱祭神とする小社。名水が湧き出ることでも知られています。 |
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![]() 本殿横の御香水(ごこうすい)では沢山のポリタンを持ち込んで汲んでいました。 (名水百選) |
![]() 魚三楼 格子戸に倒幕の鳥羽伏見の戦いの弾痕が残っていることで知られている。 |
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御香宮神社から近鉄桃山御陵駅はすぐです。この近鉄線(駅)の高架をくぐってすぐ左折するとすぐに魚三楼があります。 |
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![]() 魚三楼のこの格子に数條ある痕跡は鳥羽伏見戦(1868年)の弾痕。薩長連合の新政府軍と幕府軍が大激戦をくりひろげた世に言う鳥羽伏見の戦い(明治維新の最初の戦)です。 |
![]() 魚三楼を過ぎてすぐの辻を右折、京阪戦の踏切を渡りマッすく突き当りまで進む。 この突き当りを左折するとすぐに「鳥せい本店」がある。 |
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![]() 鳥せい本店 伏見の清酒「神聖」の酒蔵を改造した有名なお店。ここも名水百選の白菊水が湧く。名水を汲む人の行列が・・・ |
![]() 鳥弁当に伏見の清酒「神聖」を一杯頂きました。 |
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白菊水(しらぎくすい)日本名水百選 創業延宝5年(1677)の清酒神聖・山本本家の酒造りに使われ、香りのよい飲み口の淡麗な日本酒を醸し出す水。御香水との水脈と同じらしい。 鳥せい本店をすぎると今度は月桂冠大倉記念館があります。 |
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![]() 月桂冠の建物群 |
![]() 月桂冠大倉記念館入り口 |
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今日はコース確認が目的なのでパンフレットだけもらって記念館の見学はパスしました。 ちなみに、入場料は300円とのことですが純米酒のお土産がもらえます。団体の場合は前もって電話予約をするとガイド付きの案内(30〜40分)がしてもらえるそうです。 |
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![]() 酒蔵と巨大な酒樽 |
![]() 大正8年(1919)に建造されたという旧本社(右)と大倉家本宅(左端)、文政11年(1828)に初代大倉治右衛門が酒屋を創業。 |
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![]() 大倉記念館を過ぎて宇治川派流(濠川)に架かる辨天橋をわたると、竜宮造りの山門と朱塗りの塀がある長建寺があります。 この門も以前にスケッチしたなあ・・・ |
![]() 濠川(宇治川派流)沿いの月桂冠の白壁土蔵はスケッチポイントです。やなぎの葉がないので蔵がよく見通せる。グループでスケッチに来ている人たちに出会いました。 |
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![]() 右手の建物は大倉酒造(月桂冠)の建物 |
![]() 再び濠川を渡(蓬莱橋)ると竜馬通りになる。橋を渡ってすぐ左折すると有名な寺田屋旅館があります。 |
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寺田屋事件(騒動) 寺田屋騒動は歴史上の有名な事件ですが、私はおりょうの知らせで窮地を脱した坂本龍馬(幕府側に襲撃された)の事件と思い込んでしました。この事件は薩摩藩の内紛のことでした。竜馬襲撃と寺田屋騒動は別事件だったんですね。この伏見は京都と大阪の船よる交通の要所で寺田屋は薩摩藩の定宿でした。 |
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![]() 寺田屋を過ぎて京橋から再び濠川沿いを歩きます。 |
![]() 川が合流する場所に高瀬川を開削した角倉了以の碑がありました。 |
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角倉了以(すみのくらりょうい) 安土桃山〜江戸時代にかけて、朱印船貿易と河川土木事業に活躍した商人。鴨川に並行して京都から伏見に至る運河を掘り、宇治川・淀川につながる水上交通路を開いた。これによって京都−大阪間の舟便が盛んになった。この運河が高瀬川である。 江戸時代、伏見から大阪への水運は黄金期を迎える。1日に1000隻以上の船が行き交っていました。大阪へは半日、伏見へは1日かかったらしい。 今まで歩いてきたなかでハイキンググループで昼食をとる場所がない。ここから「近鉄てくてくまっぷ」でオプションコースとして紹介されている伏見港公園はどうだろうと行ってみることにする。約500mほど濠川に沿って歩いていくと昔風の橋が架かった伏見港公園に着きました。ベンチもあり昼食と休憩にはもってこいの場所でした。しかし肝心のトイレが見当たらない。犬をつれて散歩していた人に聞いてみると三栖閘門資料館というのがありトイレもあるとのこと。さっそくチェックしに行くことにする。 |
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![]() 伏見港公園に着く。 橋の向こうにモダンな水門のようなものが・・・ |
![]() 伏見港公園から歩いてきた方向を振り返る。 |
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思いがけない出会いでした。ここが大阪−京都の船便をささえた伏見港跡でした。いまは埋め立てされて公園に・・・ 宇治川の川ざらえや上流にできた天ヶ瀬ダムのために、宇治川と濠川に水位の段差が出来て船が通れなくなりなりました。これを解消するために造られたのが三栖閘門でした。酒蔵と三栖閘門間の濠川では十石舟が運航され、舟旅が盛んだった。蒸気船も石炭などを大阪から伏見の町へ運んでいたと聞きました。物流や交通の手段がじだいに鉄道に切り替わり、昭和38年に伏見港の埋め立てが決まり、昭和43年に水運の幕が下りた。 |
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三栖閘門(みすこうもん) 伏見城の外堀、濠川(ほりかわ)と宇治川の舟運を連携できるよう、水位を調整するために1929(昭和4年)建造された。その 閘門 (こうもん)とは閘室と呼ばれる前後を扉で仕切った水面に、片方の扉を開けた状態で船を入れて扉を閉じた後、他方の扉側の水路の開閉によって水位を昇降させ、その後他方の扉を開けることにより船を昇降させる装置です。 2003年3月、伝統ある伏見の舟運を象徴する閘門施設を改修して周囲を公園として整備されました。 |
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三栖閘門のゲートの支柱の中に螺旋階段があり、登ることができる。宇治川や伏見の町の展望がきく。桃山上の天守も見えたよ・・・ オプションコースを歩いたお陰で、もう一つの伏見の歴史に出会えました(^.^)。 |
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![]() 時代劇でよく出てくる新高瀬川沿いの酒蔵(左の建物) |
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![]() カッパでおなじみの黄桜酒造の通り |