八幡山城跡を歩く
滋賀県近江八幡市
2006・12・27



 今年もあと数日、歩き納めに八幡山へ登ろうと出かけました。麓にある近江八幡市立図書館の駐車場へ車を止めさせてもらう。今日歩いた登山道は上図の図書館からすぐにある整備された公園(赤点)の石段を登り、ロープウエイの下をくぐって登山道に合流しました。雨上がりの低山は雑木林や一面に敷き詰められている枯葉などがしっとりと濡れていて気持ちがよい。

 頂上まではゆっくり歩いて30分ほどだが汗ばむ。頂上の城跡に建つ村雲御所瑞龍寺門跡へお参りしてから遊歩道で北の丸跡、西ノ丸跡と周遊してケーブル乗場のある二の丸跡に戻ってくる。西の湖から安土山・繖山など展望はよいがスケッチするにはちょっと平凡すぎる。八幡堀でも描いて帰ろうと下山する。帰り道は下の略図にある登山道を下山して日牟禮八幡宮境内はずれの登山口(赤点)に出る。下のスケッチはこのポイント近くから描いた白雲館です。




白雲館
明治10年に八幡東学校として建築された擬洋風建造物です。現在は観光案内所として利用されています。




ここまではよく歩いているコースです。
 スケッチしてから図書館へ戻る途中、先ほどの登り口に来たとき、八幡山の概要を書いた案内板が目に入る。八幡山城の大手道、秀次屋敷跡、家臣団の屋敷跡、それを囲っていた曲輪あとの石垣が残っていることを知る。興味が湧いて訪ねてみることにする。




八幡山の概要を書いた案内板から位置関係略図を作ってみました。
 八幡山城は本丸などの主要な城郭施設は山頂に形成され、秀次の居館は南の山腹(標高130m)を平坦地に造成して設けられています。



八幡山城の概要

 天正13年(1585)に羽柴秀次によって、この八幡山(鶴翼山:かくよくざん)に八幡山城が築かれました。八幡山城は山頂の城郭と南山麓の屋敷群に分かれており、大手道は、秀次館跡の出入り口から家臣屋敷群のほぼ中央を直線的に走っています。大手道の両側には雛段状の家臣団屋敷群跡が広がってています。また、その屋敷群を囲む尾根には、石垣を伴った曲輪と呼ばれる遺構が残っています。この曲輪と築城時に開削されたと伝わる八幡堀が城の総構えを形成していたと考えられています。
 天正18年(1590)に、秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって城主となります。その後、秀次が謀反の疑いをかけたれて高野山で自刃させられた文禄4年(1595)には京都の聚楽第と同様に八幡山城は廃城されました。
(案内板より抜粋)

 秀次は28才で自刃、八幡山城はたった10年で廃城になったのですね。ということは18才で43万石の城主になり、近江八幡の町を開いたとは驚きです。それでも城の石垣や八幡堀がよく残っているなあ・・・



はじめて歩いた八幡山城の大手道は竹薮の中でした。
デジカメ持参していなかったので携帯電話のカメラで撮りました。



豊臣秀次公の建屋跡の石垣

ただし、この場所は先ほど見た案内板からの推測です。
 秀次家臣団の館群は、この秀次館出入り口から麓まで直線的に下っていく大手道の両側に、雛壇状の平坦地を設けて作られている。略図を参照してください。
 平成12・13年度の秀次館跡遺構確認調査(西側部分)で大型の礎石立建物や石組みの遺構が検出され、瓦等が大量に出土したとありました。




大手道を少し下って秀次屋敷跡を振り返る。




遺構は竹薮の中。上の写真よりさらに大手道を下ってきて写す。
右のブルーシートは発掘整備と思われる工事場所で石垣があり、ユンボが止めてありました。やがて住宅の間を通って車道にでましたが、ここに大手道など史跡案内する表示や案内板はありませんでした。
今回の八幡山歩きは新発見!との出会いでした(^.^)