2005・1・24
気持ちのいい晴れ間が広がり春のような感じの朝だ。柏原宿の新聞の記事を見て急にスケッチに行きたくなり栗東インターから名神高速にのる。通常、湖南地方が晴れると湖北は天候不良という冬パターンだが今日はどうかなとちょっと心配になる・・・竜王にさしかかると雪景色が広がってきた。雪景色を見ながらスムーズな走りで米原インターに着いたが、冬気候のパターンに反して快晴だ・ラッキー(^.^)。 高速から見えた真っ白な伊吹山が目に焼きついている。まず伊吹山をスケッチしてから柏原宿へ行こう。とりあえず山東町の三島池に向かったが、途中にいくつかのスケッチポイントがあったが駐車スペースがなく止められない。とうとう三島池に着いてしまった。隣接するグリーンパーク山東の駐車場に止めて歩き出したが、写真のような雪だ。スニーカーではつらい、車に戻りトランクに入れていた登山靴に履き替え散策に行く。 |
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風もなく暖かいのでここに腰を下ろしてスケッチする。下の絵がそのときのスケッチです。雪山を描くのはなかなか難しいなあ! |
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さあ、次は柏原宿だ! 柏原宿町中を走る中山道 |
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やいと塾の看板があった民家。 柏原宿の名物は「もぐさ」である。 軒先に大きな矢が掛けられてある。矢の先にはわら製の筒のようなものがついている・・・なんだろう?。 |
伊吹堂 柏原宿で伊吹もぐさ(艾)を売る店は往時には10軒を越えたという。あちこちの家々昔の屋号を書いた看板がかかっている。その看板にも「艾屋」の表示がある。 現在、残るのは「伊吹堂亀屋左京」一軒のみらしが、この「艾」という字は、はじめてお目にかかりました。当然「もぐさと」は読めませんでした。 いつも思いつきで出かけるので下調べができていません。 (^_^;) |
郷宿跡(ごうやど) 案内板には・・・柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家 郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用された。 |
郷宿、加藤家の美しい瓦屋根 |
やくし道「道標」 |
柏原の西のはずれに復元された一理塚があった。 |
明星山明星輪寺泉明院こと通称西やくし、寺は門徒も四散衰退しているが往時はなかなか賑わったお寺。この道標は享保二年(1717)と印刻され、案内も三字体(漢字、ひらがな、変体仮名書き分けられている)と非常に珍しく滋賀県下でも、道標として古いものの一つであり、枝卿長沢にも同型のものが現存している。・・・案内板より |
案内板には・・・・ 一里塚は、旅人の里標(みちのり)の目安・駕篭・馬賃野の目安と旅人の休憩所として作られた。 慶長九年(1604)、徳川家康の命を受け、秀忠はまず東海道・中山道・北陸道の一里塚築造に着手した。 一里塚の規模は、五間(9m)四方に盛り土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。柏原の一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。 |
一里塚の反対側(北側)に石段があり小さなお堂が見えた。北畠具行卿のお墓かなと思って登ってみると、それは「みろく堂」だった。お堂と反対側に山道がある・・・いつもの癖が出て 樹林帯のジグザグ道を登って行しまいました(^_^;)。 |
登山道の途中で霊仙山が見える。 |
柏原宿の地図 |
一汗かいたころ石段がと小さな社が見えてきた。この横がこの山の頂上でした。 |
山名はわからないが、285mの山頂(宿場との標高差は110mです)から東側に展望がある。 そこからは柏原宿とその真ん中を通る旧中山道が一望できる。 |
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柏原宿はずれから宿場方面を振り返って写しました。立て札は北畠具行卿の墓の案内板です。 |
柏原宿を出て醒井宿に向かう。一里塚を過ぎたところに「北畠具行卿墓」の標識があった。 折角なので寄り道したが、途中でイノシシよけ?の高圧線で先に進めない。 北畠具行(きたばたけともゆき)正応三〜元弘二(1290-1332) 後醍醐天皇の側近で天皇の討幕計画の首謀者の一人として捕えられ、元弘二年六月、佐々木導誉によって鎌倉へ向け護送される途中、ここ柏原で幕府の命により斬首に処された。 |
山に登ってみたり、結局横道にそれてスケッチは1枚しかできませんでした(^_^;)。 |