近江高島生まれの男大迹王(オホドオウ)
継体天皇関連遺跡を歩く
(けいたいてんのう)
2015・9・22
 継体天皇は第26代の天皇で、近江国高島で生まれ、越前国高向で育ち、西暦507年に河内国の樟葉で即位したと伝えられています。オホド王の誕生について「日本書記」には、彦主人王(ひこうしおう)が「近江国高島郡三尾之別業」に住んでいたころ、越前国より美しき振姫(ふりひめ)を妃に向かえ、生まれたのがオホドオウであると記されています。樟葉宮で即位した継体天皇は、即位5年に、筒城宮、12年に弟国宮へと移り、20年目に大和国盤余玉穂宮に宮を定めます。(高島歴史探訪ガイドマップ)。・・・こんなに移り住んだ継体天皇の陵墓は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいの)に治定されている。考古学名は太田茶臼山古墳(前方後円墳、墳丘長227m)です。

 

安曇川の田園風景
 先輩OBからもらった「継体天皇関連史跡を歩く」という”高島歴史探訪ガイドマップ(滋賀県高島市発行)”の継体天皇に魅かれて、このガイドマップ片手にJR安曇川駅からJR近江高島駅まで史跡を訪ねて歩いてきました。


 

9;43 JR安曇川駅着
  守山駅出発、山科駅乗り換えで湖西へ。安曇川駅まで1時間半もかかったが、今日はまだシルバーウイーク(祝日)中なので車は渋滞すると考えてJRにしました。
 

高島歴史探訪ガイドマップ
 今日はこの「高島歴史探訪ガイドマップ」の北モデルコース(10km)を参照して歩く予定です。詳しくは上の画像をクリックしてください。画像が拡大されます。
 安曇川の駅を出ると、広場があり、そこには「中江藤樹」の銅像と藤樹神社への「道標」が目にとまる。だg、目的の「継体天皇遺跡歩き」の案内はない。ここは近江の聖人、中江藤樹の方が有名らしい。手持ちのガイドマップによれば駅前あたりは「南市東遺跡」になっている。少し周辺を歩いてみたが、ガイドマップにある案内板も見つからない。あきらめて次の遺跡「下五反田遺跡」へ向かうことにしました。マップには目安となる道案内ポイントが書かれていないので、分かりにくい。方向だけ参考にするしかない。
 

五反田遺跡
 右の建物が下五反田遺跡の目印の「安曇川ふれあいセンター」です。下五反田遺跡の中心部のはずだが、案内もなく、全く遺跡の形跡がない。ちょうど清掃をしていた職員の方に高島市のガイドマップを見せて聞いたら、”ご覧のように何もなくてすみません”という返事が返ってきました(^^;)。

 

五番領の交差点
 次は継体天皇の両親といわれる彦主人王(ひこうしおう)と振姫(ふりひめ)を祭神とする古社の三重生(みおう)神社へむかう。ガイドブックの案内道を参考に歩いたが、またもや違う場所に出てしまった。たぶんこの先が県道23号線の「五番領」だろうと進むと、その交差点に着きました。現在位置がわかったのでガイドマップに従ってここで左折する。


 五番領交差点から少し歩くと、目的の道らしいところが見つかる。右折して天満宮横の道を西へ進む。
 

 少し歩くと田んぼ野中の道になり、目的地らしい丘陵が見えてきました。




 

田園風景と比良山系の山並
 秋真っ盛り、青空の下あちこちで稲刈りが行われている。山歩きの好きな私は、すぐに山に目がいきます。左はリトル比良といわれる山歩きのコースがある岳山が見えています。中央奥は滋賀県の山で二番目に高い比良山系の最高峰武奈ヶ岳が、右端は朽木から登れる蛇谷が峰です。



 この田んぼの中の道を直進する。ガイドマップでは途中で右に道をとって④三重生(みおう)に向かうようになっているが、道標もなくてわからない。しかたなく、そのまま直進して車道に出る。ここには「泰山寺」への道案内はあったが、史跡の道案内はない。ちょうどそこ出であった地元の男性に⑥安産もたれ石と④三重生神社への道を聞くと、”このガイドマップ持った人によく尋ねられるよ、このマップはまったくよく分からない案内図だなあ”と、あきれた返事をしながら、親切に二つの史跡の場所を教えてくれました。


 「泰山寺」への道案内はあった車道との交差点です。歩いてきたのはこの道の左方向です。


 

 写真左は道を訪ねた交差点です。右側の建物のすぐ後に「安産もたれ石」がある。ここを入って行くとすぐにありました。ここで初めて史跡案内の道標に出会いました。


 まずは、先に遠い方の「三重生神社」へ立ち寄ってから、ここへ戻ってこよう。車道に出会った地点から右折して道道なりに県道23号線に向かって進む。目印は「福井近畿クボタ安曇川営業所」だよと教えてもらったので、場所がよく分かりました。この建物のすぐ横が三重生神社参道になっていました。


三重生神社の参道
 

④三重生神社の本殿
継体天皇の両親といわれる彦主人王(ひこうしおう)と振姫(ふりひめ)を祭神とする古社の三重生神社


健康の森梅ノ子運動公園
 三重生神社からは本殿奥の道を歩いて⑥安産もたれ石へ戻ることにするしたが、右手に運動公園が見えてきたので行ってみとトイレも屋根付きの休憩所もある。涼しくて気持ちの良い場所なので、ここのベンチに腰掛けてグランドを眺めながら昼食をとりました。
 

 食事の後、ガイドブックにある⑤南古賀古墳群を探してみようとグランド横の道を奥に進んだが、小さなお堂とお墓があっただけで、古墳群の感じはない。あきらめてもと来た道を戻って⑥安産もたれ石へ・・・。





⑥安産もたれ石
 

道路側から左へ回り込むと正面になります。
 健康の森・梅ノ子運動公園からの道から、三重生神社へ行きとき歩いた車道に合流、やがて⑥安産もたれ石の道標が、そこを山側(右)へ入って行くとすぐに安産もたれ石がありました。三重生神社の旧跡にある「もたれ石」は振姫が継体天皇を出産するときにもたれたとされている。いまも安産祈願に妊婦さんが訪れているらっしい。もたれ石から道なりに登って行くと田中神社からの道と合流します。

 ガイドマップではこの付近の道が読めない。私のつたない説明も同じなので、車道の合流点にあった地図に歩いた足跡を赤ラインで書き込みました。
 

赤いラインが私の歩いた軌跡です。
拙い説明よりルートと遺跡が一目瞭然でしょう。
 

田中神社からの道と合流点に着く。
この右手が彦主人王(ひこうしおう)陵墓でした。
 

両側に杉木立はある陵墓への道を入って行く。


彦主人王陵墓
 杉木立道の突当りにお椀を伏せた形の小山がある。ここが彦主人王の陵墓なんだ。外周をフェンスで囲ってあり、中には入れない。



 

 車道の合流点に戻る。右手のこの道を下って行くと田中神社ですが、このあたりが田中古墳群とマップにあったので、私はこの道でなく樹林帯の中(写真右端)へ入って行きました。しかし、こちらもフェンスがあって、自由に歩き回れない。フェンスに沿って下って行くと田中神社の境内に飛び出しました。



 

田中神社の上からの展望(東南方面)
後方には琵琶湖対岸の山々が見えています。
右端の山裾がJR高島駅方面です。




田中神社
奥の建物が本殿です。
 流鏑馬の神事や、艶やかな笠鉾が参道を一巡し、一大絵巻を繰り広げる「田中祭り」が毎年5月4日に行われている。ここには鎌倉時代の石造品が6基ほどあり、往時の豊かな文化をしのばせているとありましたが、まだまだ訪問先があるので、本殿にお参りしただけですぐに次の史跡⑨石敢当へ向かいました。
 

田中神社
石段下の参道から撮影



 田中神社参道の鳥居のとことから左折するとこの一直線の道になります。マップによれば約1km歩くと次の史跡⑨石敢当があることになる。
 

南市の交差点
 田中神社から来た道を振り返って写しています。交差点の左角、植栽の中に⑨石敢当がありました。写真左下がその石敢当です。


⑨石敢当
 これは魔除けの民間信仰の石造物で沖縄ではよく見かけるものです。この石敢当は継体天皇の史跡とは関係ないように思うなあ。確認していませんが、右側面に「すぐ北国街道」、左側面に「すぐ京大津道」、裏面に天保十三(1842)年と刻まれているそうです。
 

⑩鶴塚
 北出集落のほぼ中央に建つ、鎌倉時代の石造宝塔です。石敢当も、この鶴塚も継体天皇とは関係ないように思うが、なぜかガイドマップに案内されている。


 

安閑神社(あんかん)
 創祀年代や由緒は不詳、小さな境内?に向かい合うように「神代石」という神代文字と伝わる文様が描かれた大きな石がありました。
 

神代文字(じんだいもじ)碑
 不思議な絵文字が刻まれているが、何を書いているのだろう?古くから伝わっているという・・・
これも継体天皇とは関係なさそうな気がするなあ。



胞衣(えな)塚のカンバンがあるが・・・?
空き地の奥にありました。





 

⑫胞衣塚
 どんぶり椀を伏せたような小さな塚でした。表示板がなかったらわからない。ここはオホド王(継体天皇)が出産された際の胞衣を埋めたとされる塚です。高島遺跡散策マップ」によれば、この塚は上御殿遺跡の一角に位置しています。


 広い道なりに進み、鴨川に架かる天皇橋を渡って、鴨稲荷山古墳へ向かう。






 

正面山並の左端がJR高島駅だ。
 天皇橋を渡ってすぐ右手に⑭鴨稲荷山古墳がある。このまま直進すると、突当りのT字路右角にこのコース(北モデルコース10km)の終点の⑮高島歴史民俗資料館がある。史跡めぐりについては、ここで聞くと詳しいこともわかるし、資料ももらえるよと教えてもらったが、今日は祭日なので期待できないだろう。


進行方向右手に⑭鴨稲荷山古墳がある。

 

右へ入ったところの広場に古墳の案内板がありました。
この後、⑮高島歴史民俗資料館まで行ってみたが、やはり休館日でした。マップの北コースはここで終わりで、ここから安曇川駅に戻るようになっている。進行方向正面を見るとJR高島駅近くの山並が見えている。まだ午後1時半、時間も早いのでJR高島駅まで歩こうと決める。
 

 後はJR湖西線に沿って暑い日差しの中歩くこと約30分、高島市街の町並へ入ってきた。高島駅はもうすぐだ。


14:04 JR高島駅に着きました。
 

高島駅ホームから見えるガリバーの像。
駅前にガリバーの像があるのは・・・  
 JR近江高島駅から鴨川に沿って登ること約13km、比良山系の武奈ヶ岳(ぶながたけ)(1214.4m)北部に広がる緑豊かなレクリエーション施設です。ガリバーハウスを中心とした施設で、「大人の国」「小人の国」「強者の国」「博識の国」「遊戯の国」の5つの国から構成されています。(滋賀・びわ湖観光情報HPより)


***** 継体天皇史跡歩き番外編 ****

 今日は朝から歩きっぱなしでけっこう疲れたが、スケッチは一枚もしていないので、近くの乙女ヶ池へスケッチしに行くことにしました。この池は何度か訪れていますので、もう一度描きたいと思っていたポイントへ直行しました。乙女ヶ池で絵を描いたり散策したあと、高島駅16:21初の新快速で帰路につきました。
 

乙女ヶ池

 万葉の時代、「香取の海」と呼ばれた乙女ヶ池一帯は、山の麓まで琵琶湖の入り江になっていました。今は面積8.6ha、平均水深1.6mの内湖となり、フナ、ブラックバスなどが生息しています。池には釣桟橋があり、護岸も整備されており近年ブラックバス釣りのメッカとして多くの釣り人に親しまれています。(滋賀・びわ湖観光情報HPより)
  
 

乙女ヶ池に架かる太鼓橋


 

乙女ヶ池傍の神秘な感じがする素敵なポイントです。以前に一度描いたところです。




大溝城址
 JR近江高島駅の東南約150mにあります。石垣に囲まれた小高い森が、大溝城の本丸跡です。大溝城は新庄城(旧新旭町)にいた織田信澄(のぶすみ)(信長の甥)が、天正6年に築城したもので、高島郡内から商家や寺院などを移して城下町を造りました。本丸の南東の乙女ヶ池は琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城はこの内湖を巧みに利用した水城であり、「鴻溝(こうこう)城」とも呼ばれました。江戸時代に分部光信(わけべみつのぶ)が大溝藩主になると、この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその統治が続きました。(滋賀・びわ湖観光情報HPより)
   
大溝城址(本丸跡)、石垣だけが残っている。
鮮やかな彼岸花が沢山咲いていました。