熊野古道−中辺路を歩く

近江富士を撮り続けて四半世紀の八田先生とラフォーレ琵琶湖主催の「琵琶湖一周カメラウオーク」の
番外編として企画された「熊野古道カメラウオーク」に参加したレポートです。

2005・7・10−11



熊野古道について


 熊野路は浄土への道であった。熊野の神々にあこがれた人々がたぎる信仰を胸に、山を越え海沿いをよぎって行った。それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた。「蟻の熊野詣」であった。
 この熊野路の名を高めたのは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての熊野行幸だった。延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで、実に374年間にわたり、100回以上の行幸であったといわれている。
 早朝京都を出発まず淀川を船で大阪に下る。それから陸路南に向かい田辺・中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。
往復の日数は20日から一ヶ月、一行の人数は最大で814人、最小のときで49人、平均300人前後にのぼったといわれている。上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の各所に「九十九王子社」と称される休憩所がもうけられ、そのうち中辺路町内には滝尻王子より道湯川王子まで13王子がある。(近露王子跡にあった石碑より転載)

 
 

今日は右上の野中の清水から逆に「道の駅なかへじ」へ歩く予定です。


 
 今回はラフォーレ琵琶湖のイベントツアーに「熊野古道カメラウオーク」に参加して熊野古道の中辺路コースの一部を歩いてきました。偶然にも熊野古道がユネスコの世界遺産に登録されてちょうど一年にあたると聞いて記念すべき歩きとなりました。また、今日のニュースで知床半島が世界遺産に新しく登録されたというニュースを見ながらこのレポート書いています(^.^)。

7月10日(日) ラフォーレ白浜で温泉につかって一泊する。

 7月11日(月) 目を覚ましたら薄日がさしている。心配してたお天気は大丈夫みたいだ(^^)v。さっそくウオーミングアップかねて朝食までの時間を白浜海岸へ散歩&スケッチに出かけました。

8:30 朝食をすませてバスで出発地点の野中の一方杉を目指して出発。


道の駅なかへじ
 


熊野古道への入り口
  
9:45 途中コンビニで昼食のおにぎりを買出し、国道311号沿いにある「道の駅なかへじ」に約1時間ちょっとで着きました。今日の歩きはこの道の駅がゴールで、中辺路を逆にたどる歩き易いコース計画です。道の駅から国道を横断したところに熊野古道への入り口がある。
 小休止のあとスタート地点の国道311号沿いにある「野中の一方杉バス停」まで向かう。ここから100mほどの標高差を歩いて熊野古道に出る予定でしたが、ラフォーレ琵琶湖のTさんと八田先生の配慮で「野中の清水」までバスで乗り入れてくれました。歩けば約20分ほどの登りになるます。
ラッキー!!(^_^)v。



標高約500mのこの場所でバスを下り、配られた蚊取り線香をぶら下げて古道歩へ出発しました。



ほんの少し歩くと「野中の清水」に着く。
道の駅から同乗された語りべの伊藤さんの爽やかな声で説明がはじまりました。
ガイドさんのいでたちが雰囲気を盛り上げる。


名水 野中の清水(名水百選)

 清らかな水が湧き出ている。古くから知られた名水である。この真上に継桜王子社や一方杉がある。熊野古道を歩く人がわざわざ道から降りてきてのどを潤したとある。

俳人 服部嵐雪が宝永二年(1705)5月に詠まれた句碑がある。

「すみかねて道まで出でるか山しみず」

また歌碑には・・・
「いにしへのすめらみかども中辺路を越えたまひたりのこる真清水」

歌人 斎藤茂吉が昭和九年(1934)七月に詠んだ短歌もありました。



野中の清水



皆さんそれぞれに名水を飲んでいました。





舗装道路をはずれ畑道を登ると
熊野古道に出ました。



ちょうど野中の清水の真上になるところに秀衡桜(ひでひらざくら)がある。

秀衡桜(ひでひらざくら)

奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、その子を残してここ野中まで来て、杖にしていた桜の木を地に突きさし、子の無事を願ったとされ、その木が成長したのがこの秀衡桜だといわれている。(案内板より)

 天仁二年(1109)の藤原宗忠の日記、中右記(ちゅうゆうき)に、「道の左辺に継桜の樹あり、本は檜で誠に希有なこと」と記している。その桜が秀衡伝説に結びついたものとみられる。



歩き出してすぐ民家がある。
この辺りの建物は風対策で平屋が多い。また材木はトガの木で釘を使わない建て方だと説明されていました。

 軒下にサガリ(左の写真参照)が取り付けられているのが特徴です。

すぐに野中の一方杉のある継桜王子社がある。


継桜王子社



鳥居をくぐって急な石段を登ると小さな社があります。
 建仁元年(1201)十月に後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、あるいは承元四年(1210)四月、修明門院に随行した藤原頼資(よりすけ)の日記には「続桜」王子とあるので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。



熊野の方に向かってのみ枝が出ているので一方杉といわれています。



下から一方杉を見上げて・・・
巨木の撮影は難しいですね(^_^;)



一方杉はかなりでかいでしょう。
人がとても小さく見えます。



比曽原王子ははやくに荒廃したらしい。
杉木の前に古そうな石碑がありました。




 中辺路あたりは庚申信仰があついらしい。
この庚申さんの石仏には八つの手がありました。

 熊野詣では多くの参拝者が行き倒れになってなくなったらしい。参拝者は庄屋さんが発行した道中書付(?)を持参していて、なくなったその地で葬ってもらうよう、また故郷の身内などへは連絡しなくてもいいなどと書かれていたと語りべさんからお話がありました。その文書のサンプル見せていただいたのに写真に収めるのを忘れました(^_^;)。

 もう少しで集落があるという所で亡くなる人が多かったことから集落の出入り口には供養のお地蔵さんが祀られている。


 ちょうど12時前高所にある大畑の集落に着く。
ここで休憩と昼食タイムとなりました。





お地蔵さんと石碑
左端の石碑は「月待供養」と刻んである。
なかへちでは、旧暦11月23日に昇る月が三体に見えるという伝承があると教えていただきました。

三体月(さんたいづき)の説話

 なかへちの高尾山で修行していたひとりの修験者が野中(のなか)、近露(ちかつゆ)の里に降りてきて、「11月23日の月が出たとき、高尾山の頂きで法力を得た。村の衆も11月23日に高尾山に登り、月の出を拝むがいい。三体の月が現われる」と里人に告げて立ち去った。
・・・修験者のいう通り、三体の月が出たのでたとある。
  このことがあってから、毎年11月23日の夜には、高尾山に登り、月待ちを行うようになった
・・・・この説話についても語りべさんが教えてくれました(^.^)。



大畑から近露へは下りになる。草花や薬草のお話を聞きながら観察するが、
名前が覚えられません(^_^;)。



あちこちで見かけた花




皆さん立ち止まって畑の野菜や花木を眺めながら畑仕事のおばさんとお話・・・



ウバユリと教えてもらいました。この近辺にはたくさん見られましたが、まだつぼみばかり、どんな花が咲くのだろう
この舗装路からしっとりとした山道に入る。




トチノキニンジ
トチの木の葉に似ているから・・・
こんな大きな実はめずらしとのこと・・・
草花たちや薬草の名前は聞いてもすぐに忘れてしまいう。聞き間違いはご容赦を・・・



この道にはいろいろな草花があるので踏まないようにと注意をされる。



樹林帯の山道から再び舗装路に飛び出す。
ここにも熊野古道のカンバンと道標がありました。



山道から舗装路に出たところにササユリが咲いていました。


みちすがら立ち止まったこの景色のところでもこの山にまつわるお話を聞きましたが、思い出せません(^_^;)


 やがて中辺路町立近野小学校のところで分岐があり、右折して小原峠経由で野長瀬氏一族の墓へと案内してもらいました。熊野古道はそのまま直進するみたいです。ちょっと回り道して近露でこの道と合流しました。
ガイドさんはこの小学校の校名が近露と野中が一緒になって中辺路町立近野小学校となったと教えてくれました。なるほど・・・なっとく(^.^)



小原峠のお地蔵さん庚申さん?
これもあやふやでスミマセン(^_^;)




野長瀬氏一族の墓で語りべさんの説明を聞く
ここから和歌山TVのカメラマンが私たちに合流?してきて語りべさんが案内する様子をビデオ撮影しながら、まわりをちょろちょろする(^.^)。
滋賀では放送ないだろうなあ・・・

野長瀬(のながせ)氏一族の墓

 大塔宮護良親王(もりながしんのう)が熊野落ちして十津川に入り、玉置庄司の軍に攻撃されて危難に陥ったとき、近露の野長瀬六郎・七郎の兄弟が部下を率いてかけつけ、親王の急を救ったことが「太平記」に見える。ここには五十四基の五輪塔と六基の宝筐印塔(ほうきょういんとう)が並んでいます。その多くは埋没していたのを戦後の開墾で掘り出されたものである。(案内板より)





 野長瀬氏一族の墓を過ぎると、近露王子跡(写真中央の大木が見える所)と近露の町並みが一望できる。近露王子跡は「近露道中」という珍しい名前のところでした。
後方の丘陵(左)は牛馬童子石仏がある箸折峠、今日のコースはここを越えて下ったところにある
「道の駅なかへじ」です。




伝馬所になっていた近露道中の但田家
伝馬所は紀州藩が官史の通行の便宜と公用の文書・荷物の逓送のために設置した役所です。




宿 屋
 この付近は「近露道中」といわれ、熊野街道の宿場としてにぎわった所で、江戸時代には十軒ちかくの宿屋があったらしい。

 


近露王子跡の石碑

熊野古道を歩く語りべさんと私たちを和歌山TVのカメラマンがついてきて、あれこれち注文つけながら取材をつづけている(^_^;)。



 最後は語りべさんにインタビュー&撮影をしていました。
一人での取材でバタバタしているカメラマン、どこの会社も厳しいのだなあ・・






日置川
熊野詣する人がみそぎをするという・・・この道中最後の大きな川です。







箸折峠の手前にあるあづまやから近露の全景が展望できる。
日置川にかかる赤い橋を渡ったすぐ左手の木々が茂っている所が近露王子跡です。




箸折峠への上り口り口
日置川を渡って舗装路から山道へ入る。


箸折れ峠や牛馬童子の話を聞く



花山院供養塔
この宝筐印塔は鎌倉時代のものと推定されています。



牛馬童子の石造(左)と役の行者石造
牛と馬にまたがった僧服の童子の像(牛馬童子石仏)は、花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで、近年有名になったそうです。

箸折峠(はしおりとうげ)

十九歳で退位を余儀なくされた悲劇の帝・花山院(かざんいん)は、わずかな供の者をつれて、
熊野本宮への旅をしていました。
 箸折峠のこの丘は、花山法皇(かざんほうおう)が御経を埋めたところと伝えられ、また食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠。 カヤの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この地が近露という地名になったという・・・。





紀州藩が立てたという一里塚の石柱の前で説明を聞くメンバー。



いよいよ今日のゴールである「道の駅なかへじ」に向かって植林帯の中の道を下って行く。

14:40 梅雨の時期にもかかわらず、お天気にもめぐまれ「道の駅なかへじ」に無事着きました。

みんな思いおもいに土産を買ったり小休止したりしたあと、全員で記念撮影をして、一日お世話になった語りべの伊藤さんにお礼を言って帰宅の途につきました。

20:00交通渋滞もなく無事にラフォーレ琵琶湖に着きました。

 二日間運転をしてくださったラフォーレ琵琶湖のTさんと添乗員をしてくれたOさん、また企画から案内までしてくださった八田先生ご夫妻には大変お世話になりました。感謝!
・・・・参加された皆さんお疲れさまでした。




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