暗越奈良街道

2007・3・15

JR駅からはじまるハイキング番外編の「ぶらり大阪まち歩き」から”暗越(くらがりごえ)奈良街道コース”を選んで歩いてきました。 大阪から奈良との県境の生駒山(暗峠)を超えて奈良に至る街道であり、数ある奈良街道の一つです。「日本の道百選」にも選定されています。最短だが山越のきつい道だったことだろう。今日歩いた暗越奈良街道は、そのごく一部(紫色の線)でした。 JRの案内には、鶴橋駅(出発)〜玉造駅まで約4.7kmとありました。


 











 大阪環状線の鶴橋駅下車するとそこは鶴橋商店街です。そこは狭い路地のにお店が密集していて、キムチやチョゴリなど韓国のものを売るお店や食堂も多い。大勢の買い物客で賑わっていました。ここで昼食をとって、さあ歴史街道歩きの出発です。

キムチ店や韓国の食べ物屋(名前覚えていません)さんが多い
おいしそうな種類の豊富なキムチ、お土産にしたかったが臭いが・・・あきらめる(^_^;)





商店街から千日前通に出ると交差点(玉津3)に胞衣塚(えなづか)があります。
また、この交差点からちょっと入ったところに比賣許曽(ひめこそ)神社あります。



胞衣塚


比賣許曽(ひめこそ)神社。
胞衣とは胎児を包んでいた膜や胎盤などのことをさす。ここは比賣許曽(ひめこそ)神社に祀られている大小橋命(おおばせ)の胞衣が納められているという。

第12代垂仁天皇の時代(紀元前29年〜紀元70年)に下照比賣命(したてるひめのみこと)を祀ったのが起源。大国主大神の御子神にあたり、国土経営に大きな力注いだとされる女神です。を



あとは暗越奈良街道までは民家や商店のある細い道歩きです。

玄関先が花いっぱいのお宅

赤レンガの倉庫

 大今里4丁目の国道308号線が通る交差点に笠灯籠式の道標がある。

「左ならいせ道、右・・・・
 文化三年丙寅孟春 施主江戸積釘問屋世話人当村弥三七」


 ・・・・と刻まれているらしいが見過ごしてしまいました。もとは東南約20km先の北八尾街道分岐にあったものらしい。

  ちなみに、この308号線が生駒山の暗峠越えの細〜い細〜い暗越奈良街道にあたるらしいです。


火袋式道標




 熊野大神宮は・・・・
大通りを入ったところ、今里公園に隣接して妙法寺と並んでありました。大神宮という名から想像できないこじんまりした社と境内でした。

 用明天皇2年(587)の創建といわれ、長い歴史を持つ。いざなぎの尊などがまつられ、旧今里の氏神でもあった。このお寺の創建には聖徳太子が深くかかわっているようです。



妙法寺
聖徳太子が建立したと伝えられている



近世国学の祖が眠る修学道場




僧契沖(そうけいちゅう)
 万葉集を現代語訳するなど、国学の発展に尽くした契沖が延宝7年(1679)から元禄3年(1690)まで住職を務めたお寺。契沖が残した「万葉大匠記(まんようだいしょうき)」は徳川光圀公の命を受けて編成されたという。境内そのものが大阪府顕彰史跡に指定されている。
遺跡は妙法寺と熊野大神宮の間にあるはずだが見過ごしてしまいました。





コース上にあった道標
高麗橋から4.7キロメートルと刻んであるので最近整備されたものだろう。



 旧奈良街道は、玉造より深江へと東成区をほぼ東西に通じているが、この界隈の建物でなんとか昔の面影を想像する。




常善寺への道標
大今里1丁目の常善寺は大阪の芝居興行と深いかかわりがあったようです。



 平野川(百済川)にかかる玉津橋を渡って右へ、八坂神社に向かう道に見た民家・・・




八坂神社から再び大通りへ。旧奈良街道の道と長堀通の交差点から振り返って写す。


二軒茶屋跡・石橋跡の石碑

 玉造の奈良街道には茶屋が二軒、道の北側に「ます屋」、南側に「つる屋」、明治まで営業していたとのこと。




矢田地蔵尊
玉造駅東商店街の中ほどにありす。

 石碑には「従是二リ松原一り余くらがり峠一里余小瀬一リ矢田山」書かれている。伊勢参りへの途中矢田寺参りする人にも利用されていたことを物語っている。
 今回歩いた暗越奈良街道は交通量の多い大通りや建物ばかりの街中がコースでした。想像力の乏しいKENには「歴史街道」をイメージするのは難かしかったです。暗峠は生駒山から信貴山へ歩いたとき通りましたが、いつか暗峠越えの道(国道308号線)を歩いてみたいです。