守山宿と遺跡ハイキング

2003・10・19
守山市ボランティア観光ガイド協会主催のハイキングに参加して、ボランティアガイドさんの案内とお話でホームタウンの再発見をしてきました。
コースはJR守山駅から勝部神社→大宝神社(栗東市)→ 一里塚 →金森 →ホタルの森資料館(市民運動公園) →下之郷遺跡 → 三津川 →守山宿(東門院・道標・甲屋跡) → JR守山駅 《 距離 約8km 》
守山駅西口を出発。街中を5分も歩くと「勝部の火祭り」で知られる勝部神社に着く。この火祭りは毎年1月第2土曜日に勝部神社と住吉神社(浮気町:JR東口側)で行われます。鎌倉初期に数千年の歳をとった竜蛇を焼き払って退治し、土門天皇の病平癒が始まりと伝えられている。退治したとき大蛇の胴体はこの勝部に東部は少し離れた住吉に飛んでいったということから、勝部の松明は大蛇の胴体」を、住吉の松明は大蛇の頭をかたどっている。
勝部神社の境内で説明を受ける
この勝部の火祭りの風景は数年前に撮影したものです。
大宝神社の鳥居(中仙道から)
境内にある芭蕉の句碑
大宝神社は、大宝元年(701年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。

また、大宝神社入口の鳥居横には元標(げんぴょう)の石柱がる。よく通る道なのにこんなものがあるなんて全然知らなかったです。これは復元された「大宝村大字綣元標」で里程標も兼ねた道路元標。正面には、大津元標を距こと、四里十八町三十間五尺(17,730m)などとあり、裏面に大正六年二月十五日建設、寄付・西田哲太郎とある。
クスノキの大木と本殿
中仙道の今宿一里塚
五道山十王寺 小野篁作の閻魔法王があるところからこのあたりの地名も閻魔堂になったらしい
石造宝塔 重文 もと金森の石ノ戸にあったものを明治時代に現地に移転。鎌倉時代のもの
本尊は阿弥陀如来像
今宿から次の訪問所、金森懸所(カナガモリカケショ)に向かう。
境内の蓮如上人像の前で説明を聞く
勝部神社から楓三道で勝部の在所の中を南西へ向かう。栗東市にはいる手前の伊勢町には伊勢遺跡がある。この遺跡は弥生時代後期(紀元二世紀後半ごろ)の巨大な集落遺跡です。1980年に個人住宅建築に先立って試掘調査で弥生時代後期の柱穴や土器が発見された。いまは埋め戻されていて何も見ることができません。そこをすぎて栗東市に入るとすぐ大宝神社の森になります。
大宝神社を出て中仙道を歩いて守山市街へ引き返す。道のりにある今宿一里塚や十王寺なども、いままで気がつきませんでした。
江戸時代、日本橋から一里ごとに塚を作り、榎などを植えて旅人の旅程の目安としてきたもの。県内唯一の街道交通史跡です。
市民運動公園で昼食タイム。一時間ゆっくり休憩してホタルの森資料館を見学したあと、弥生時代の集落遺跡「下之郷遺跡」を訪ねる。ここは三上山を頂点として広がる野洲川流域平野のほぼ中央に位置しています。扇状地の末で地下の伏流水が地表に湧き出してくる水源地帯にあたり、生活を営む上で大変適した場所だった。環濠と呼ばれる大きな溝ムラのまわりを囲んでいて22ヘクタールもある巨大な集落です。昭和55年、下水道工事のときに弥生時代の土器や溝の跡が見つかり発見されました。いまは道路のとこに案内板があるだけです。
下之郷遺跡あとから三上山を望む
遺跡跡に作られている古代米(アカ米の田圃)
水路を三本の川に分流して水問題を解決したという三津川の分岐口を見学 
東門院
天満宮でハイキングの締めくくりをしました。ボランティア観光協会の皆さんお疲れ様&ありがとうございました。
再び中山道に戻り、東門院を見て、今宿から本宿に入る曲がり角の道標の説明を受ける。その石柱には「右 中山道并美濃路」「左 錦織寺四十五丁このはまみち」と刻まれ、他の一面に「江州大津西念寺京大阪大津講中建立」と刻まれていた。中主町にある真宗木辺派本山錦織寺参詣の道標として、延亨元年(1774)に建てられもの。