近江神宮から東海自然歩道で穴太へ

2004・1・6
皇紀2600年を記念して、昭和15年 (1940)に大津京にゆかりの深いこの地に創建された。
御祭神 天智天皇(中大兄皇子)第38代の天皇。約1,300年の昔、大化の改新を断行、古代における立国の体制を確立。学問の神、知恵の神と崇められている。また、漏刻(ときのきざみ)つまり初めての時計(水時計)を作らせ、時刻を周知せしめられた事跡により時計関係の祖神と仰がれている(これは知りませんでした)。

坂道の集落を抜けていくと薄暗い樹林の中に百穴古墳群がある。古墳時代後期(6世紀後半)の群集墳でこれから向かう崇福寺跡とともに国の史跡に指定されている。ちょっと気持ちが悪いので見学しないで崇福寺へ向かいました(^_^;)
林道歩きに退屈した頃「穴太野添古墳」につく。琵琶湖方面も開け明るくなる。
坂本から錦織にかけて連なり、比叡山の東の山麓に形成された古墳時代後期の群集墳の一つ。石室の構造や副葬品から渡来系の人々が葬られていたと考えられている。


石造阿弥陀如来像:志賀の大仏(おおぼとけ)13世紀ごろ作られたと考えられる。この石佛の横を通る道は、崇福寺跡(すうふくじ)から山中町を経て京都の北白川へぬける旧山中越え(志賀の山越え)で、大津側の入り口に位置する。旅人が道中の安全を祈願したといわれている。
金仙滝の案内、見てみると林道沿いに4から5mくらいの小さな滝があった。ちょっとすぎたところに崇福寺小金堂跡、塔跡と阿弥陀堂跡への二つの道標があったが、寄り道せず先へ進む。
崇福寺
大津京遷都の翌年(668)、天智天皇の勅願により宮都の鎮護のため宮域の乾(北西)方向の山中に建立された。伽藍は三つの尾根に分けて金堂、講堂、塔などを配置、平安時代まで存続した。
 退屈しのぎに近江神宮へでも初詣してスケッチでもしようと10時過ぎ自宅を出る。地図が欲しくて途中膳所駅で下車して西武ショッピングセンターへ行ったが、1/25,00地図はパルコの紀伊国屋書店あるという。大通りを挟んですぐだ。こんな近くに紀伊国屋書店が二店もあって商売になるのかちょっと不思議だった。
浜大津から比叡山は25,000地図では「京都東北部」なのかあ・・・
近くの義仲寺をスケッチしようと思ったが道路が狭いのに交通量が多くてあきらめた。近くの京阪石山坂本線の石場駅から近江神宮前駅へ。駅から5分ほど歩くと近江神宮の境内の森の中へ入る。参道を歩いている人はほとんどいない、ほとんどの人は車で本殿近くの駐車場まで来るみたいだ。混雑するのは正月三が日だけなのか、それにしてもすくないなあ。
近江神宮
ちょうど昼時、境内の「みやげ物店・軽食堂・時計博物館」でうどんを食べる。時計より歩くほうに興味があるので300円を節約(^_^;)して比叡山方面目指して出発する。
西大津バイパスにそって歩く
今日歩いたコースです。
比叡山方面目指して歩くと西大津バイパスに出会う。それにそって歩くとやがて滋賀里からの旧山中越えに道に合流。この道は東海自然歩道にもなっている。ここまで来てやっと歩くコースが決まりました(^_^;)。低山だが壺笠山(421)もあるから・・
滋賀里からの道から琵琶湖を見る。三上山がかすかに写っています。
この道の左が百穴古墳群
志賀の大仏(おおぼとけ)が祀られている建物
志賀の大仏(おおぼとけ)
この分岐を右へ東海自然歩道を行く
左:崇福寺金堂跡 右の東海自然歩道へ
づっとこのような幅広の林道が続いている。あちこちに新しい堰堤がある、きっとこの工事のために就けたのだろう。
ここに東海自然歩道の道標があり
やがて林道が終わり急な木段ののぼりになる。木々が繁りあたりが急に暗くなってきた。急登を一登りすると尾根道に出ました。東海自然歩道で比叡山方面は左だ。予定コースは壺笠山経由して穴太へ下るが、ここには案内板はない。地図どおり右の道をとる。少し進むと道は狭くなり獣道のようになりちょっと不安になる。それに壺笠山方面は道が薄れギブアップ。そこで細い道をジグザグに下ることにする。下には四ツ谷川と林道があるはずだ。10分も下らないうちに林道に出た。壺笠山はあきらめて川沿いの林道を一路くだり穴太駅へ向かう。
なんか異様なスタイルの堰堤があった
穴太野添古墳から湖南の三上山が見えてきました
穴太駅近くの県道へ出たところの道標には東海自然歩道分岐まで点3..1km、根本中堂8.3kmとありました。入り口にははっきり明示しているが、林道に飛び出した地点には案内もテープもない。この道標は林道をづっと登っていくという意味なのか・・・