西国第五番札所 紫雲山

葛井寺
ふじいでら
2012・3・8(木)

 気が向けばスケッチや山歩きを兼ねてお参りに行くというスタイルの西国三十三所観音霊場めぐり。11年目の今回の葛井寺(大阪府藤井寺市)をもってとうとう満願に至りました。葛井寺は近鉄南大阪線の葛井寺駅下車、南出口を出て200m程の近場にありました。商店街を南へ歩くとまず西門に出会います。



葛井寺西門(四脚門)
 ここからも参拝できますが、正門の南大門へ向かう。その先に「大阪みどりの百選」の辛国神社がある。そこを左折するとすぐに南大門に着く。




辛国神社(からくにじんじゃ)
 今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社です。旧藤井寺町のあたりを治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになりました。



葛井寺南大門

お遍路姿の参拝者が西国観音めぐりの雰囲気を演出してくれる。
門前に小さなお土産店があり、葛井寺名物「くず餅」の旗が揺れている。



葛井寺のご朱印

             第五番葛井寺

 当寺御本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として有名である。
秘仏。毎月十八日に開扉、その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきた。

 河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も百済(くだら)王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。 
 永正七年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による2Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。 
 その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(725)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。
  「西国三十三所巡礼の旅」のHP
    第五番葛井寺よりの転載させてもらいました。




 南大門を入ったところからの葛井寺の境内の様子です。正面が本堂、右手に弘法大師像があります。

 ※本尊の千手千眼観音像は毎月18日がご開帳という秘仏でこの日は残念ながらは拝観できませんでした。でも、これで三十三箇所めぐり満願を迎えました。


弘法大師像


 今日もいつものように朝の天候をみてからの行動なので、葛井寺を参拝したらもう正午を過ぎていました。食事に駅まで戻ろうとも思ったが、近くに仲哀天皇陵があることを知り寄り道してみることにする。ここからは予定していなかったオプションコースです(^_^;)・・・・




仲哀天皇陵古墳

古市古墳群の西部に築造された墳丘長242mの前方後円墳です。古市古墳群で3番目の大きさです。出土した埴輪の特徴から5世紀後半に築造されたと考えられています。案内板には「岡ミサンザイ古墳」とも記されていました。



 天皇陵の周囲を一周していると変った形状の建物?が目に入る。インパクトがある。立ち寄ってみたら、その建物は巨大な舟形をした「アイセル シュラ ホール(藤井寺市立生涯学習センター)」”緑と歴史の街、藤井寺のふれあい拠点”とありました。



目を引いたアイセル シュラ ホールの外観

    名前の由来をここで係りの人に聞いたら・・・

 「アイセル」は、Activity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたもので、「シュラ」は藤井寺市で出土した"古墳時代" の巨石運搬用ソリ"修羅 (ソリ)" を意味するとのこと。館の外観は「船形埴輪」と「修羅」をイメージしてデザインしたものらしい・・・・。


天皇陵から見えていた不思議な建物は
正面玄関入り口でした。

 2階の展示場ではちょうど「古市古墳群(ふるいちこふんぐん)」の展示がされていました。藤井寺市ははじめて、西国5番の札所「葛井寺」があるから訪れただけで他の情報は白紙状態でした。古墳は「奈良」の専売特許と思っていましたが、ちなみに私は奈良生まれなのでこんな固定観念を持っていました。ここにこんなに沢山の古墳が点在していることをはじめて知りました。それに古墳(前方後円墳)の向きは決まっているものと思っていましたが、東西南北いろんな方向に作られているのに少々ビックリしました。ただ西向きが一つしかないのも不思議だな〜


歴史展示室(2階)

古市古墳群(ふるいちこふんぐん)

 日本有数の大型古墳が密集する古市古墳群は、大阪府の東南部に位置する、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。

 東西約2.5km、南北4kmの範囲内に、古墳総面積世界一の誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成されている。いずれも標高24m以上の台地や丘陵上にある。北部の誉田山古墳(伝応神陵)・仲津山古墳(伝仲津姫陵)・市ノ山古墳(伝允恭陵)・岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)などの古い古墳群と南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい一群とに分けられる。相対的序列は、仲津山古墳、誉田山古墳・仲津山古墳・津堂城山古墳、市ノ山古墳・墓山古墳、河内大塚古墳、前ノ山古墳、ボケ山古墳、白髪山古墳、高屋城山古墳になるであろう。古墳造営には豪族の土師氏(はじし)などが関与していたと考えられている。
(ウイキペディア・フリー百科事典より)


アイセル シュラ ホールを見学した後、とりあえず昼食をとるため藤井寺駅まで戻ろう。辛国神社の分岐道まで戻ったら、傍に「冨士正」藤本酒造場の建物が目に入る・・・地酒には興味がある。ちょっと寄り道・・・


「冨士正」藤本酒造場
通の正面突き当りに葛井寺の南大門見えている。



創業は大正2年の酒蔵には古市古墳めぐりに組み込まれているのかハイキング姿の団体が・・・お店には行ってみたが混雑していたので試飲はあきらめる。
 アイセウ シュラ ホールでゆっくり「古市古墳群の展示」を見てしまったので藤井寺駅前へ戻って遅い昼食をですませたらもう午後2時半になっていました。西国巡り「第五番葛井寺」は駅前なのですぐ終わると思って、その後に富田林へ移動してへスケッチ仲間に人気の「寺内町」に行こうと考えていました。だけど時間的にしんどいからあきらめる。富田林の「寺内町」はまだ訪問したことがありません。ネットで調べたら、江戸時代に公儀御料となり、酒造業で栄えた町で現在も多くの町屋が残り、大阪府で唯一の国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。中心部を南北に縦断する城之門筋が建設省の日本の道100選定されているとありました。ここはスケッチ仲間に人気のスポットなので、またいつか出直してみよう。

 食事後、シュラホールでもらった「古市古墳群ウオーキングマップ」で時間的に可能な津堂城山古墳から雄略天皇陵を回るコースを選択する。二つの古墳は近鉄藤井寺駅から北にあり、散策して高鷲駅まで歩いても約3kmだろう。どちらの古墳も住宅の密集した地域の中に突然現れるのでちょっとビックリしました。





紅梅の後が津堂城山古墳
 ここは周囲から眺めるだけの古墳ではなく、墳丘などが散策できるようになっている。


小高いところが墳丘なのだろう
住宅街の方だろうか、散歩する人もチラホラ・・・

古市古墳群 大王陵のさきがけ
津堂城山古墳

 4世紀後半、大和を中心とした大王陵造営は、その拠点を河内に移します。その先駆的な古墳が津堂城山古墳です。二重の濠・堤をめぐらせてくびれ部には造出しを備えるなど、それまでの前方後円墳には見られない特徴を持っている。中世には城として利用され、その後も開墾などで一部破壊されましたが、現在は史跡に指定され、市民の憩いの場として活用されています。
 
明治45年81912)、後円部頂上で埋葬施設がみつかり、銅鏡や巴形銅器、短甲(たんこう)や鉄鏃(てつぞく)、石製腕飾類や模造品などの副葬品が出土しました・・・・また、衣蓋形や水鳥形などの多彩な埴輪も見つかりました。
(津堂城山古墳のちらしより抜粋)


北東方面に信貴・生駒の山並みが望める。
墳丘の上から


東方面の眺め
小高い墳丘の上かを歩く。


 津堂城山古墳後円部竪穴式石槨(せっかく)の天井石(竜山石)が城山古墳ガイダンス棟の前に展示してありました。たぶんレプリカだろう。後方は墳丘です。


史跡城山古墳の石碑と小さな神社





最終的にはこんなルートを回ったことになります。

⇒ 藤井寺駅 ⇒ 葛井寺西門 ⇒ 辛国神社 

⇒ 葛井寺南大門から参拝 ⇒ 中哀天皇陵古墳

⇒ アイセル アシュラ ホール
   (藤井寺市立生涯学習センター) ⇒昼食

⇒ 津堂城山古墳 ⇒ 雄略天皇陵 ⇒ 高鷲駅

※古市古墳群の全体マップは大きすぎたので、歩いたエリアのみカットして貼り付けています。




雄略天皇陵古墳
今日は遅い出発なので格安の昼特キップが使える。そのため時間制限があってゆっくり散策できませんでしたが、念願の西国三十三箇所めぐりを満願できました。その上、初めて訪問した藤井寺市で好きな歴史散歩(古市古墳群の一部ですが)もできて満足です。
 ちょっと急ぎ旅でしたが、なんとか昼特キップ制限時間内にJR大阪駅を通過できてラッキーでした。