新選組ゆかりの史跡をたずねて歩く
2003/12/4
壬生の狼と恐れられた新選組は京での活躍は文久三年から慶応四年(1868)までのわずか5年間とか。

 京都の清水坂あたりをスケッチしようとでかけましたが、駅でたまたま手に取ったJRの電車&ウオーク誌に”新選組ゆかりの史跡をたどる”という記事が目に留まり歩いてきました。
添付の略図を参考に京都駅正面から塩小路通りを西に向かい堀川通りのそばにある不動堂を探す。
地名の由来となった不動堂が残っている。うかっとしていると見過ごしてしまいそうな小さなお堂だ。
堀川通面して新屯所が完成したのは慶応3年(1867)。同年冬、伏見奉行所に本拠を移すわずか半年間だったらしい。
不動堂から堀川通を北へ、西本願寺は案外近い。新選組屯所としては壬生が有名ですが、隊の規模が拡大して手狭になったとき一時この西本願寺の境内の一角を屯所としていたことをはじめて知りました。
西本願寺の正門
太鼓楼は旧来より時を知らせたり、法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。新選組隊士の集合や訓練の合図にも使われたのだろう。現在の太鼓楼は宝暦十年(1760)の親鸞聖人五百回忌の頃建立されたものといわれている。二つの太鼓のうち古いほうは胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、奈良の西大寺の遺品と言われている。
西本願寺の北東角にある太鼓楼
西本願寺の北東角(太鼓楼)で左折、本願寺の白塀に沿って西へ。島原へ向かう。
 島原は江戸時代以来、公許の歌舞音曲を伴う遊宴の町、花街(かがい)として発展してきた。寛永十八年(1641)、官命によって島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野(シュシャカノ)の地に移された。その移転騒動が九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。
 この島原は、単に遊宴をするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸時代中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
 しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋(すみや)」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋(わちがいや)」、それに島原入り口の「大門」、来れれ三箇所がわずかに応じの名残をとどめる。

島原へ向かう途中にあったお風呂屋さんの看板が目にとまる。その名も”誠の湯”ダンダラ羽織の図柄も入っていて新選組ゆかりの町を感じさせてくれる(^.^)。
島原大門
嶋原のでぐちのやなぎをみて
なつかしきやなぎのまゆの春風に
なびくほかげやさとの夕ぐれ蓮月尼

            太田垣蓮月(歌人1791-1875)
輪違屋:ランタンの図柄でなっとく(^_^;)
角屋は現存唯一の揚屋建築として国の重要文化財に指定されている。内部は角屋もてなしの美術館として公開されています(有料)
幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王志士たちが、軍用金調達のため時の豪商たちを角屋へ招いて会談したところであり、また彼らを探し求めた新選組がたちまわった場所でもある。立て札の横には長州藩士「久坂玄瑞密議の角屋」と刻まれている。
角 屋
次はいよいよ新選組とゆかりが深い壬生寺に向かう。島原から真直ぐ北上。まず新選組の当初の拠点になった新徳禅寺から、のちに隊士の屯所となった近くの前川家、八木家を見て壬生寺に行く。。
新徳禅寺
壬生寺
壬生寺境内にある近藤勇の胸像
前川壮司邸の長屋門
八木源之丞邸:新選組の幹部宿舎として使われていた。芹沢鴨ら反近藤派粛清の舞台となった
反近藤派で粛清された芹沢鴨の小さな墓もある。
幕末激動の京都、新選組の足取りをたどって歴史を感じるのもいいですね。ほかに京都所司代(西国大名の動向を監視するため設けられた機関)跡碑、東西奉行所碑などが二条城の近くにある。また京都守護職跡は京都府庁にあるが今回はパスしました。