スケッチしながら坂本城跡へ

2005/4/19


 今日は朝から快晴、午前中パステル教室があり、午後からスケッチかねて坂本城跡まで歩こう。途中膳所で下車してNHK大津放送局のギャラリーで開催されている福本我們さんの「滋賀の風景」水彩画作品展を訪問しました。ギャラリーで福本我們さんにお会いできて、いろんなお話を聞くことができて楽しいひとときでした。ペン画に淡彩の在原の里の茅葺の絵が印象に残りました。在原もまた行きたいなあ・・・

 さあNHK近くの石場駅から京阪で終点の坂本へ。ちょうど昼時、まず腹ごしらえに三百余年の歴史のある老舗の蕎麦屋「鶴喜そば」に立ち寄る。汗ばむ陽気でざる蕎麦が美味しかった。その後なかかな味わいのある鶴喜そばの建屋をスケッチする。

 




正面玄関
 
 築120年近い母屋は、そばだけでなく、夜は川魚や精進料理でおもてなしできるよう建てられました。
 入母屋造の総二階建で、濡れ縁には折鶴がくりぬかれ、当時としては、少々派手な仕様になっています。
 当初桧皮葺だった唐破風が、消防法によって、今では銅版になっています。

 
本店母屋(1887年建築)
平成9年5月23日 登録有形文化財指定


(鶴喜そばHPより転載させていただきました)


 
 腹ごしらえはできた、さあ史跡探訪だ。京阪坂本駅前の観光案内所で資料を探したが比叡山や延暦寺、坂本の門前町はあったが坂本城についての資料はない。とりあえず湖岸の161号線まで下り、大津方面へ歩き出す。



明智光秀の坂本城は織田信長政権の4城ネットワークの1つ
(織田信長の安土城、羽柴秀吉の長浜城、織田信澄の大溝城



 落城した坂本城は後に修復されて、丹羽長秀に与えられたが、豊臣秀吉は琵琶湖水運の要衝として浅野長政に命じて大津(浜大津駅近く)に築城を命じ、天正十四(1586)年築城にあたり用材は大津城に移され、坂本城は廃城になった。

また、坂本城の城門は西教寺の山門に移築され、現在も残されています。
 明智光秀とその妻、熙の墓も西教寺境内にあり、現在も丁重に弔われています

その後の推移:

その大津城も廃城になり、その用材は膳所城に築城に使用(城門など)された。天守は彦根城に移築されたらしい。




坂本駅から1時間ほど歩いた国道161に面したキーエンス保養所の門横に坂本城本丸跡を示す石のプレートがあった。うかっとすると見落としてしまいますよ。ここを過ぎて少しの歩きで坂本城跡の石碑につく。



 ここは明智光秀の像と説明碑のある湖岸に面した坂本城跡の小公園になっていますが、遺構はないようだ。あとで調べたら1994年の大渇水で水位が1メートル以上下がったときに琵琶湖の湖底に石垣が姿を現ししたとある。普段は見えないらしい。

 
 元亀二年(1567)織田信長の山門(延暦寺)焼き討ちのあと、光秀は湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主になった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍しました。
現存する公園地は、日吉山王祭で湖上へ御輿を船積みする七本柳という舟入跡です


七本柳
毎年4月14日の日吉大社の山王祭において、みこしを船に乗せる船渡御(ふなとぎょ)がここから行われる。唐崎神社の沖まで行ったみこしは、そこで「粟津の御供」を受ける。




唐崎神社





唐崎神社の境内にある近江八景の碑
(大瀬祓い所の址)
ちょうど湖面行くミシガン(遊覧船)が、その向こうの高いビルは膳所のプリンスホテルです。

大津指定文化財(史跡名勝)  唐 崎

韓崎、辛崎、可楽崎などの字もあてられる場合もあるとのこと・・・・
万葉集にもでてくる大津京時代からの地名で、湖上交通の湊と考えられている。
「枕草子」に湖畔の名勝として紹介されている。室町時代の終わりに「近江八景」が選定されると、その一つ「唐崎の夜雨」の舞台となった。

この地に遺松は、日吉大社西本宮の御鎮座との深いかかわりがあり、唐崎の一本松と呼ばれて親しまれ ている。