里山の勝楽寺城跡を訪ねて


2015・5・3(日)
 FB友達のトウドウさんから、正楽寺口から勝楽寺城跡・西明寺山・松尾山(金剛輪寺)まで、湖東三山自然道を歩こうと誘いを受けて出かけました。待ち合わせはJR河瀬駅です。






JR河瀬駅
後方の山は彦根市の琵琶湖岸にある荒神山です。
 稲枝駅に早めに着いたのでトウドウさん達3人を待つ間にこの絵を描きました。その後メンバーと駅前の湖国バスのバス停で合流して、10時05分発の萱原行で出発しました。


 

 約20分ほどバスに揺られて正楽寺口バス停に着く。とりあえずバス道なりに進むことにする。爽やかな風が吹いていてとても気持ちのよい日です。
 

 道に並行して流れている犬上川へ下りていくと、木陰ではもう宴会(^^♪がはじまっているようだ。
 

犬上川本流の横にこんな疏水がありました。

 

川沿いを少し歩いてから川と別れ右へ
勝楽寺山が見えてきた。
  

田植がはじまった水田に映る勝楽寺山
 メンバー一人の体調から今日予定していた勝楽寺城跡(勝楽寺山)・西明寺山・松尾山(金剛輪寺)まで、湖東三山自然道を歩く予定を変更して平地散策で行くことになったが、それでも山歩きが気になる私でした。
 

勝楽寺道の角にこんなお堂がある。
 

 11:04 ゆっくり歩きで勝楽寺に着きました。
慶雲山・勝楽寺は

 南北朝動乱の近江守護職として、また室町幕府侍所々司を勤める四職家の一つとして、当代に傑出した武将、佐々木道誉(京極道誉)を開祖として創建されました。

 道誉は、その曉勇諸将に卓越した豪傑であり、如何なる権威にもとらわれぬ稀にみる自由奔放な思想の持ち主として、いわゆる「ばさら」の典型として、今日、歴史的な注目をあびるようになった。道誉は、きわめて豊かな文化的教養をになっていた。今日の芸術として親しまれている能・狂言・申楽 はもとより、茶、花、香などの芸道に及んでその真価を発掘して、その興隆に力を尽くした。
(勝楽寺の案内板より)


  

正楽寺境内に入ると、この案内板が目に入りました。
 勝楽寺境内で、平地歩きにルートを変えるというトウドウさん達と別れ、私はこの案内板につられてく正楽寺山登山へ・・・
 

境内にある佐々木道誉の墓石
 

登山道に入るとすぐに石仏が並んでいる。
 

獣除けの柵の扉を開けて進むと、
すぐにこの砂防ダムがある。案内板の通りだ。
 

仕置場
次は仕置場と表示された場所がある。城主に背いた人をここで処刑したとある。知るとちょっと不気味な感じになるだ。
   
 案内板通り地図を持たなくてもわかりやすい登山道だ。
 

経塚
 

もうウツギが咲いている。
 経塚:佐々木道誉の第三子高秀が父の菩提をとむらうために、山頂に穴を掘り諸大名、近隣の人々を集めて大法要をいとなみ、その時集った人達に法華経の経文を一字一石に書きその穴に埋め後世に残して菩提をとむらったもの。
 

 狐塚の手前で展望が開ける。遠方に見えているのは荒神山、その後方にはびわ湖が広がっています。




 

狐塚
  この塚は、狂言「釣狐」の発祥の地といわれています。狂言の世界は猿で始まり、狐で終わるといわれ、「釣狐」は狂言の世界では、最高の技を要するといわれています。その白蔵主狐(はくぞうす)の伝説が勝楽寺に伝えられています。赤い鳥居と小さな社がありました。
   
  狐塚の後、ちょっときつい登りがつづいて、やがて稜線に出る。
道標には左:勝楽寺城跡・見張り台、右:上ろう落としとある。まずは城跡へ行ってみよう
 

城跡へは平坦で広い道だ。
 

城跡の台地の手前斜面に石垣が少し残っている。
  
勝楽寺城跡は
 南朝期の城で、一部だけ石垣を築いた山城です。尾根の各所から近江の平野が手に取るように見え、河瀬・多賀に支配を配し、鶴翼の陣構えで湖国近江を睨んでいた往時の本城の容姿が偲ばれる。戦国初期の城として近年脚光をあび学術的価値を高めつつあると案内板に書いてあったが、いったい誰の城だったんだろうか?と思っていましたが・・・

※頂上の城跡に着くと案内板があって城主がわかりました。
  この城跡は高築豊後守が佐々木道誉の館と領地を守護するための砦として1368年に築城されました。この城はところどころに縦堀りがあり、全国的にも珍しい「うね状縦堀山城」として、敵が城へ登ることを容易に許しませんでした。峰づたいの尾根は削平して通路を拡げ、郭も設けられていました。
 海抜317メートルの城跡には残念ながら当時の礎石と土塁及び石垣が残るのみである。頂上から遥か湖東平野を眺むと多賀氏・河瀬氏の支城を前衛に配して鶴翼の陣をしき、領地を固め堅城によって天下の政治に努めた道誉の姿が浮かんできます。(城跡の案内板より))
 

勝楽寺城跡の台地
後で気づいたが、見張り台へ行くのを忘れました。
 

城跡から戻り”上ろう落とし”へ向かう。

  

樹木の合間から望める鈴鹿山系の山並み



10分弱で展望の開けた”上ろう落とし」という場所に着きました。

上臈落とし
 尾根の南端のこの地は、「上臈落とし(じょうろう)」と言われ悲しい物語も伝えられています。戦国の時代、幾たびかの戦いで、決死の戦いと思われる出陣前に妻子・子女と今生の別れをした地と語り伝えられている。(案内板よ地)
 

素晴らしい展望を見ながらここで昼食の弁当をいただく。
やはり休憩するのはこのように展望が開けたところが最高ですね。
勝楽寺山は標高300mの低山です。


 

彦根市中心地(右方向)の写真をズームアップすると小高い山の上に彦根城の天守が見えている。



12:20 下山開始、約20分ほどで正楽寺境内へ下れました。
平地歩きのメンバーの後を追って西明寺方向へ。
   
  勝楽寺から数分でこのため池に着く。池畔には藤の花が水面に映って綺麗だ。
ため池から道なりに10分ほど歩くと、写真左下の「しめ縄」に出会いました。
 

御旅所の勧請の大注縄
勧請の大注連縄
大注連縄は神社内に於いて一月十日より十六日まで七日間天下泰平、国家安穏、村中安全、五穀豊穣のため、祈祷し、その時、西明寺の僧、法華八講の論議を行い、その満行と共に張った綱で法華勧請の大注連縄といい、俗に勧請の綱と呼ばれている。
 現在では御旅所に張られているが旧来は村の入り口に大綱を張り、その下で甘酒を施し、法華問答に負けた者は勧請の綱より入ることを許されなかったと言う。
 

若宮溜
 御旅所の前を走る国道307号線を渡り、若宮溜の堤防道入ってきた。ここは犬上郡甲良町池寺に位置する若宮溜です。
池寺、地名のとおり、この地には農業用ため池が多くあります。先人が残し、今も継承する農村文化遺産です。



 

若宮溜から勝楽寺山方面を振り返る。
 これからトウドウさん達を追いかけても、山登りで約1時間後れをとっているので、追いつかないと考え、ここから方向転換して豊郷方面を目指すことにしました。
 

 樹齢500年以上といわれている若宮溜のシンボル、若宮の大杉です。若宮溜の堤防下から写す。
 

八大龍王社
 池寺から西へ、甲良町総合公園を左に見て進み、八大龍王社前を通って行く。。
 

長寺という集落で出会った蔵付きのすごい民家


 

田植が終わったばかりの水田
 

田んぼの向こうは青い穂をつけた麦畑が広がる。
  長寺の集落を抜けるとこんな田園風景が開ける。そこから東出、西出と通って目加田という集落へ。
目加田の入り口に「目加田城跡」と書いた案内板が目に入り訪ねてみることにする。
 

目加田城跡公園
 通りから入ってみると、こんな土盛りと芝生の広場のある小さな公園でした。

 

公園にあった藤棚
 勝楽寺山から約2時間歩き続けたので少し疲れた。爽やかな風が吹く藤棚の下のベンチで小休止。ミカンで渇きを潤す。


 なが~い平地歩きをして近江鉄道の豊郷駅へ向かう途中、絵になる造り酒屋さんの建物に遭遇しました。

 


創業安政元年の造り酒屋の岡村本家


 
   
  
 スケッチした後お店を覗く、若女将と思う方にお酒の名の由来を聞くと、酒の名は”金亀”ですとの返事でした。そのわけは地元が彦根なので、そのお城・彦根城の別名からいただいたとのことでした。「彦根城」は滋賀県彦根市”金亀町”にあるお城で、その山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つている。そのため彦根城は金亀城(こんきじょう)ともいうそうです。最初はお店の暖簾を見た時、変わった名のお酒だなと思いました。
 

 まだ歩きが残っているので試飲はあきらめ、ワンカップをお土産に買いました(^^;)。
 

吉田の通りを振り返る。
岡本本家の煙突が見えている。

 

吉田の集落にある愛知神社
 ここ吉田の集落を過ぎると金剛輪寺から下ってくる道路に合流する。すぐに新幹線の高架線が見えてくる。目的の近江鉄道も新幹線に並行して走っている。豊郷駅はもう近いなあと思っていたところに、後ろから来たタクシーが私の横で止まった。何という奇遇、乗っていたのはトウドウさん達でした。お互いにビックリ(@_@)でした。再会を約して別れ豊郷駅に向かう。
 

豊郷駅
 駅に着いたらタイミングよく近江八幡行きの電車がホームに入ってきた。いつもは八日市駅で乗り換えなければならないが、ラッキーでした。でも、運賃はJRなどに比べるとかなり割高です。豊郷から近江八幡まで750円もしました(^^;)。



今日は平地を2万歩きました。ほとんど舗装路だったので登山靴での歩きはかなり足にこたえました。