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日本大正村散策
(岐阜県恵那市明智町)
2014・8・31
日本大正村、明治と昭和の間に、人の心がありました。
古きよき時代のモノを再現したかったのではありません。
町をそっくり、その空気で包みたかったのです。
だから「日本大正村」は、人の手づくりとボランティアが基本なのです。
・・・・という日本大正村HPのキャッチフレーズに誘われて出かけました。




6:18 JR守山駅出発、名古屋で乗り換え
 10分遅れの9:37恵那駅に到着しました。




明智へ向かう路線風景
 JR恵那駅に隣接している明知鉄道の恵那駅ではJRの遅れに合わせて明智行列車が待っていてくれました。ラッキー(^^)。10:30明智着
 明知鉄道(あけちてつどう)は、岐阜県恵那市、JR中央線の恵那駅から明智町までの25.1kmを走る第三セクター方式の鉄道です。沿線自治体などが出資し、旧日本国有鉄道特定地方交通線を引き継いだ鉄道路線だそうです。地元では明鉄(あけてつ)と呼ばれています。
 


明智駅前
 正面は明智駅、その駅前を走るのは国道363号線です。左は瀬戸・瑞浪方面、右は恵那市街方面です。
 


 明智の町の中心を流れる川を渡って、まずは八王子社へと向かう。


  

本日の散策で訪問した所に赤色の下線で示しました。
 


明智光秀公、遠山家ゆかりの「八王子神社」
 明智駅の正面の道を直進すると八王子神社に突き当たります。石段を登っていくと本殿、その左横の道で、遠山家累代の墓、龍護寺、代官所陣屋跡を通って大正ロマン館へ向かう。
 


八王子神社の前を通っている南北街道
 南北街道の南方面の眺めです。まずは町の散策を後回しにして、興味のある山歩きをして明智城跡へ行くことに決める。

 

大正ロマン館
 

ちょっと高台の大正ロマン館前からの明智の町
 大正のモダンなイメージをした洋風建築で初代日本大正村村長高峰三枝子氏、同村議会議長春日野清隆氏の記念館です。それに明智町出身の日本の油絵の第一人者の山本芳翠画伯の直筆画の展示室もありました。 他にも、大正時代に関する資料などの企画展示もありました。
 

旧三宅家
 三宅邸は旗本遠山家に仕えていた家老5代目、与次郎重正が現在の母屋を普請したと伝えられています。築後300余年、合掌造りのカヤ葺き屋根を持つ近世農家建築が完全な形で現存されている。
 

 大正ロマン館から右手の旧三宅家建物を通過して明智城跡を目指す。町中散策より好きな山歩きを優先して山道に入って行く。


 

 大正村ウオーキングの案内板に導かれて天神神社、明智城跡へ登っていく。
 

道標も道もはっきりしている。



少し登ると光秀公学問所がある。
 

光秀公学問所
 明智町の南端、万ヶ洞に、明智光秀公の若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われている学問所です。この右隣に小さな社、菅原道真公を祀っている天神社がありました。
 

明智城本丸跡
 明智城は、明知遠山氏代々の居城で、石垣はないが多くの曲輪跡や出丸跡などがある山城跡でした。


遠山家ゆかりの明智城跡
 明智城は宝治元年(1247年)明智遠山氏の始祖・遠山景重によって築城されたと伝えられています。 以来、代々の遠山氏が居城としてきたが、天正二年(1574年)武田勝頼の大軍に襲われ落城した。 1582年家康に従った利景は関ヶ原合戦後の慶長五年(1600年)家康の命により明智城へ戻り、慶長八年明智を本領とする朱印状を賜ることが出来た。 しかし、元和元年(1615年)方景は旗本として江戸に屋敷が与えられる事になり、明智城は廃城となるが、代わりに大手門近くに代官屋敷が設けられた。



次は大正ウオーキングコースに従って明智城跡から下山、千畳敷へ向かう。
 

スケッチしたくなる製材工場だろうか
東海自然歩道もこんな町中を通っている。

 

 明智城跡からいったん下って、千畳山への登りになる。振り返ると先ほどまでいた明智城跡の低山が見えている。


千畳敷
 明智城主が宝治元年(1247年)に築城した頃、西南の方角に当たる千畳敷台地は戦略上、重要な地点として砦を築いたと伝えられています。この砦は 山の上から南北街道を一望に見下ろせる。戦国時代の天正年間には遠山家の一族、串原五郎経景がこの砦を(落合砦とも言われる)守ったと伝えられています。
 

千畳山頂上手前にある光秀公産湯の井戸
 伝承によれば明智家十一代光秀は、大永6年(1526)三月十日ここで生まれた。当時千畳敷には明智城があったといわれ、この井戸が「光秀産湯の井戸」といわれている。
 

千畳山頂上の弘法大師像
 頂上は見晴らしの良い広場で、気持ちの良い風が吹き抜けていました。山歩きで体も汗ビッショリ、初めての休憩を涼しいここの東屋でする。明智の町も一望できる。
 

小高い千畳敷から望む明智町
 
 千畳敷で休憩した後、町中散策に切り替えです。山を下って最初の見学スポットは【大正時代館】、有料だが最初訪問した大正ロマン館で見学スポット4館共通入場券(500円)を購入している。ここは当時の暮らしぶりなどをテーマに1階には新聞やレトロなポスターなどが、2階にはカメラ、扇風機といった当時の貴重な製品が保存され、大正天皇にまつわる展示がされていました。あっさり見て回っただけで、古民家のある”うかれ横丁(中馬街道)”、南北街道へと向かいました。
   
  どこも絵になる風景を楽しみながら食事処を探す。
   
  うどん屋さんに入ろうか・・・と迷いつつ、歩いているとレトロな喫茶(下の写真)が目に入る。


 


 笹乃屋(左の写真が旅館全体)という旅館の玄関右横にあった”喫茶・軽飲食 アミー”。覗いてみるといきなり地階へ、思い切って入ってみました。
 


南北街道沿いにある旅館「笹乃屋


 


 玄関からすごくレトロな雰囲気だったが、地階の喫茶・食事処もタイムスリップしたような雰囲気でした。
 

渡り廊下のある中馬街道の風景

 
 この喫茶へ入ったことが思いがけない出会いとなり、お店の大正ロマンそのままの雰囲気とともに楽しいひと時となりました。

 ・・・というのは、”絵が好きでこの町へスケッチに来た”と話すと、喫茶の年配のおかみさんが自分のお父さんが出版された、この明智町出身の画家について書かれた著書”明治洋画の快男児「山本芳翠」”という本をプレゼントしてくれました。この本を書かれたお父さんは山本芳翠顕彰会顧問をされていたという。明智町に来るまではまったく知らなかった”山本芳翠画伯”でした。そういえば先に訪問した「大正ロマン館」で作品展示と紹介を見ていました。・・・・とても不思議な縁を感じました。

  それに描きたかった”廊下のある道”はこの旅館につながっているという。お店の反対側にも入り口があり、出るとそこに狭い路地があり、この道が中馬街道(旧道)でした。頭上を見ると、まさにそこに描きたいと思っていた渡り廊下がありました。南北街道と中馬街道、両方に入り口があるお店でした。ちなみに旅館の玄関がある南北街道は中馬街道よりずっと新しい道だと教えてくれました。



渡り廊下のある道
 中馬街道をまたぐ渡り廊下が今も残っています。 生糸が全盛の明治後半から大正期にかけての時代、左側にある芸妓置屋から着飾ったお姐さんたちが中馬街道をまたぐ「渡り廊下」を通って、右側にある料亭の席へ通ったと言われています。



 
 

日本大正村資料館
 ここは当時の生活を感じることができる資料を展示してありました。この建物は休憩所で土産などを販売している。見学館はこの建物の左横(右の写真)を入って行った突当りの建物です。明治末期のもので木造百畳敷き一部4階建て、手動のエレベーター付きの当時としては巨大で貴重な建築物です。農家から預かったり、買い取った『繭』を収納するための銀行の繭倉で、生糸の町の名残です。左側の建物は『大正村の館』で、二階建ての家屋は明治の末期に建てられた当地の名門、橋本家の住居跡で大正時代の生活様式を象薇的に残しており、大正文化を充分に味わう事が出来ました。
 

正面が資料館、左側は大正の館です。
 

逓信資料館
 明治8年に開局したこの地方で最も古い郵便局で、大正になって、内部2階モダンな出庇に欄間風の彫り物を加えた数少ない大正モダン建築です。
 

大正路地
 明治の終わり、大正時代に年貢米を納めた米倉と江戸時代から続いた呉服問屋の蔵が並ぶ昔ながらの路地です。
 

大正村役場
 元役場を利用した施設で、無料資料館兼休憩所となっていますが、中をちょっと覗いただけで見学はしませんでした。明治39年庁舎として建てられたのがこの役場です。当時としてはモダンな建物で、昭和32年9月まで明智町役場として使われていました。
 

大正村浪漫亭
 ここには大きな観光駐車場があり、大正村観光のスタート地点になっています。2階にはレストラン、1階は郷土品やお土産売り場や、駄菓子屋を再現したコーナーがあります。お土産には興味がないので写真を撮っただけで駅に急ぎました。午後3時、ちょっと早めですが明智を発ちました。

わずか5時間ほどの明知町滞在で、欲張って「大正ウオーキングコース」のほとんどを歩きました。 
大正村の見どころと史跡、歴史探訪を目いっぱい楽しめました。