竹中半兵衛の菩提山城跡を訪ねて
(菩提山 標高402m)
岐阜県不破郡垂井町
(2014・4・7)
 今年のNHK大河ドラマ”軍師 官兵衛”に誘われて、豊臣秀吉のもう一人の名軍師、竹中半兵衛重治の故郷を歩いてきました。垂井町はまったく初めての訪問地なので事前にインターネットで”垂井町観光ガイド”をチェック、概略地図と訪問先の資料をプリントアウトして出発しました。守山から垂井までは米原で一度乗り換えるだけで約1時間で到着しました。JR垂井駅舎は中山道の宿場町をイメージした建物と思っていたら、モダンな洋風建築でした。詳しい案内を聞きたかったが駅前の観光案内所は10時からしか開かない。とりあえず、竹中半兵衛の陣屋跡を目指すことにする。


 

JR垂井駅(正面)
 駅からこの道なりに歩いて行くと町の中心部を流れいる相川に着く。陣屋跡を訪ねるならこの橋を渡るのですが、中山道宿の通りを歩いてみたい。


 中山道に入るといきなり古民家(右角の建物)がある。歴史のある旅館だそうだ。

 
中山道を歩く前に、季節感いっぱいの相川の風景を見ておこう。
  



 ちょうど相川河川敷一帯の桜が満開、ものすごい数の鯉のぼりが強い風にあおがれて豪快に泳いでいる。遠くには2~3日つづいた冬戻りの寒さで冠雪した白い伊吹が顔をのぞかせている。まだ午前9時過ぎだというのに河川敷には沢山の車が止まっている。休日でもないのに朝早くから花見客が来ているのだろうか。



 花見もできた。さあ、中山道を散策して今日の本命、竹中半兵衛の陣屋跡と菩提山城跡を目指そう。中山道の垂井宿は宿駅であると同時に美濃路の起点にもなっている交通の要所でした。天保14年(1843)、垂井宿総家数315軒で、商工業者が多く軒を並べていたと記録されています。中町にあった本陣は大名、宮家、公家などの休泊にあてられ、西町にあった脇本陣は本陣の予備として使われいたそうです。東町には当時の旅籠亀丸屋が現存しているという。

 

旅籠 亀丸屋
上の写真を別角度から撮りました。
 

一部改装されているが、これも古民家だろう。

  
 亀丸屋西村家(写真上左)は、垂井宿の旅籠屋として、200年ほど続き、今なお当時の姿を残して営業している貴重な旅館です。安永6年(1777)に建てられた母屋と離れ。浪花講、文明講の指定旅館であった。二階に鉄砲窓がある珍しい造り。


南宮大社の大鳥居
南宮大社は金山彦命を主祭神に、旧国弊大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めている。関ケ原合戦で社殿のすべてを焼失。寛永19年(1642)、3代将軍徳川家光が再建したといわれています(国の重要文化財)。時間があったら帰りに立ち寄ってみたいな。


歴史のある小林家
 この建物は、文化末年に建てられ、江戸時代は油屋卯吉なる人が油商を営んでいた。明治初年、その建物を小林家が譲り受け、一時旅館を営んでいたという。垂井宿は度重なる火災にみまわれたため、小林家の造りも漆喰などで固め、防火対策がしっかりしてあると説明板に記載されていました。
  

 樽井小学校の所で中山道に分かれ相川に架かる橋を渡る。プリントアウトしてきた観光ガイド図には距離が明記されていない。一本道が遠くの山まで続いている。この道を行けば菩提山に着くのだろう。それにしても風が強烈だ、それに寒い。土地の人に聞いたら”伊吹おろし”だという。
 


 プリントアウトした案内図をなぞって、一直線のなが~い道路を城跡に向かう。野中の一本道には建物がないのでもろに強風にさらされる。あとで分かったことですが、偶然にズームアップしたこの歩道の突当りの山が菩提山城跡でした。その後方には白い伊吹が見える。





 やっと両側に家並のある所へ来てホッとする。城跡への道標がここまで来てもない。間違っているのかと思い、畑作業をしている男性に”半兵衛の里はこの道でいいの?”と聞くと、あと20分ほどで岩手公民館につと教えてくれる。そこでハイキングコースやふるさと歩きのチラシをくれると親切に案内してもらいました。
 


 竹中氏陣屋跡
 

陣屋跡にあった竹中半兵衛の銅像
  
 戦国時代の智略が飛び交う中で、豊臣秀吉の名軍師、竹中半兵衛重治とその一族の拠点であった陣屋跡です。白壁の正門、がっしりとした石垣が残っており、一族の隆盛を物語っています。



菁莪(せいが)記念館
 江戸幕府は朱子学を官学とし、藩校などでは武士教育が盛んに行われ、儒学が浸透していきました。岩手の旗本竹中氏は天保年間に道場菁莪堂をつくり、文武両道を指導。明治になって菁莪義校、菁莪学校として発展しました。現在、岩手小学校の東南に菁莪記念館が建てられています。
  休館日 月・火曜日

 



菩提山城跡
 竹中氏の居城が構えられた、この菩提山は陣屋跡の西方にあります。山城は標高402mの山頂に、およそ南北260m、東西最大幅60mの広大な天嶮を利用しており、堅固なつくりと巧妙さは、類を見ない規模になっています。頂上の菩提山城跡へはハイキングコースが整備されている。

 
 

白山神社登山口
案内板には頂上まで1350mとありました。


登山道に入ると
ミツバツツジがきれいでした。
 
   
登山道 、よい雰囲気になってきたぞ(^^)


 すぐに白山神社の鳥居が迎えてくれる。

 

白山神社の社
登山道はこの社の左手から後ろへ続く。
 




垂井町の展望
白山神社からすぐ上に林道工事の場所に出る。そこからの展望です。



 

分岐点
 直進すればもうすぐ頂上だ。右へ下る道は大手道です。
 

菩提山頂上に着いた~(^^)。
城跡にはちょっと凹んだような堀割がある。



城跡はこのような広場になっている。

 
 

城跡から垂井の町を望む
展望が聞いて戦略上抜群の位置だ。

 

大手道
山城でも、さすがに大手道、歩きやすい。



八幡神社の社
下山してきた大手道は道標のある方からここにでる。

 


八幡神社の鳥居
この鳥居のすぐ横(左手)が禅憧寺でした。
 


 禅幢寺

禅幢寺
(ぜんどうじ)
 薩摩の国、金鐘寺の正磧(しょうせき)和尚が当地に来て開基となる。永禄元年(1558)竹中氏が6000貫の領主となり、竹中半兵衛重治は父重元と共に菩提山に城を築きました。天正7年(1579)藩州三木の陣において行年36歳の若さで病没した半兵衛重治の菩提を弔うために、その子重門がこの寺に墓石を移しました。現存の本堂は重門の子、重常が寛文3年(1663)に建立したもので、今では竹中氏とその家臣の菩提寺となっています。





禅憧寺前通りの桜

 ここまで歩いてきたがスケッチしたい所がっ見つからなかった、そこで休憩を兼て一枚描きました。桜は何度も描いていますが難しいです(^^;)。



 

垂井駅へ戻る途中からの菩提山
 駅から向かうときは菩提山のイメージがわからなかったが、今は登ってきた後だから全体像がよく分る。手前の山が菩提山、後方の山の鉄塔の左が城跡のある頂上です。そこから右へなだらかな尾根が続いて右端が下山した禅憧寺です。この尾根道がいま下ってきた”大手道”です。さすがにお城のメイン道路、なだらかで歩きやい道でした。



 駅から菩提山までこんなに遠いとは思っていなかった。タクシーなら10分ほどで着くのに・・・帰り道は疲れているので余計に感じました。ぶら~り、ぶら~り、歩いてやっと垂井駅近くに戻ってきたら、「垂井の泉」というのがありました。この泉が町の名に・・・・はじめて知りました。

   
 
垂井の泉
 岐阜県の名水50選に選ばれた由緒ある泉で、幹まわり8mの大ケヤキ(県指定天然記念物)の根元から湧き出る清水は涸れることはないという。古くから和歌にも詠まれ、「垂井」の地名はここから生まれたといわれています。



 垂井の泉の傍に道標があって、JR垂井駅500m、南宮大社1kmとある。南宮大社へ行きたいと思って、すぐのJR東海道線の陸橋まで行ったが足の疲れがピーク、それにちょっと痛さを感じて断念。南宮山ハイキングコースもあるので、いつかまた来る機会もあるだろう。 携帯付属の万歩計を見ると2万歩を越えていました。