鳥羽伏見の戦い戦跡たずねて
2013・3・24
 いつも利用する守山駅で”JRふれあいハイキング”の4〜6月号を手に取る。そのページをめくると健脚向き14kmの歴史コース≪八重の桜・その3「鳥羽・伏見の戦い」≫が紹介されていた。今年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」はあまり興味がわかず、ときどき見るくらいだが歴史には興味がある。明治維新への発端となった戊辰戦争のはじまり、鳥羽伏見の戦いが起こった「小枝橋」や幕府方、新政府方の陣取った場所を訪ねたくて、さっそくこのコースを歩きに出かけました。




 京都で奈良線の普通列車に乗り換え三駅目、JR藤森駅に着く。9:30 コースのスタートちてんになっているJR藤森駅を出発する。小高い場所なので遠望もある。


 下り道を少し歩くと藤森神社(ふじのもり)がある。なかなか立派な神社だ。何か行事でもあるのか、境内は人でにぎわっている。






これは今回参考に歩いた「JRふれあいハイキング」のルートマップです。行程は約14キロメートで健脚向けコース。藤森神社の境内は広く、木陰もある。それにきれいなトイレもあり、ここが集合場所となっていることに納得する。いつも一人歩きの私には神社の方に興味がある。



まずは藤森神社の本殿にお参りする。



境内には朝からハッピを着た男たちが集まっている。これから神輿を組み立てるの?と聞けば、5月のお祭りの練習をするという。神社にハッピ姿はよく似合うなあ。

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)
 平安遷都以前に建立された古社。日本武尊などの神々を祀り洛南深草の産土神(うぶすながみ)として崇拝されています。「菖蒲の節句」の発祥の神社と知られ、菖蒲(しょうぶ)が勝負(しょうぶ)に通じることから、勝運と馬の神社として信仰が厚い。また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。それに加えて二つとない良い水として名付けられたという名水「不二の水」もあります。



神水「不二の水」
 桜がちらほら咲きだした境内で水を汲む男性がいる。戦国時代から勝ち運を授けてくれる水といわれている。飲んでみたら、とても舌触りのよいやわらかい水でした。



疏水と京阪電車
 藤森神社をあとにして、疏水を渡る。さらに師団街道を横断して、竹田街道(国道24号)、新高瀬川を渡って西へすすむ。




竹田駅
10:30 ラフな案内地図なので、あちこち迷い道しながらやっと近鉄・地下鉄併設している竹田駅にたどり着く。この駅の向こう側に渡る。



 10:50 竹田駅から電車線に沿った道を南へ歩くと、やがて右手に多宝塔が見えてくる。近づくとそこは近衛天皇安楽寿院陵でした。隣接して最初の目的地の安楽寿院がありました。





安楽寿院:境内には桜がちらほら咲きだしていて、汗ばむ陽気とともに春を感じる。



桜はまだ1〜2分咲きです。


隣接しているもう一つの鳥羽天皇陵



安楽寿院から小枝橋にかけては広大な「鳥羽離宮跡」でした。



「鳥羽離宮跡配置図」より抜粋
赤ラインは今日歩いた道です。
 鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池(えんち)からなる広大な離宮です。その範囲は東西1.5km、南北1kmにもおよび、当時の日記に「都遷(みやこうつり)がごとし」と言われるほどでした。この地は平安京の朱雀大路からまっすぐ南下した場所にあたり、現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西に桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形でした。
 院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していきました。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年にわたり政治・文化の中心となり副都心の賑わいを見せたのでした。



安楽寺からすぐに北向山不動院がありました。



正門


本殿

 北向山不動院

 天台宗の単立寺院で一般に北向不動の名で親しまれている。大治5年(1130)鳥羽天皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教大師を開山としたのがこの寺の起こりである。本堂に大師自から刻んだ不動明王を王城鎮護のため北向きに安置したので、天皇から北向山不動院の名を賜ったという。現在の本堂は正徳二年(1712)東山天皇の宮殿を移したもので、本尊として不動明王を安置する。



北向山不動院からすぐにある広い油小路通りを横断して城南宮に向かう。
上には新しく建設された高架道路の「阪神高速8号京都線」が走っている。
交差点で左折して1ブロック目に城南宮通りがある。

〜方除の大社〜
城南宮
 城南宮は、平安遷都の際に、国土の安泰と都の守護を願って、王城(都)の南に祀られたお宮であることから、城南宮と称えられます。そして、国常立尊( くにのとこたちのみこと)、八千矛神(大国主命:やちほこのかみ)、息長帯日売命(神功皇后:おきながたらしひめのみこと)の三柱の神様を中心にお祀りしています。



城南宮



参道を歩く神職



本殿正面の鳥居


城南宮の本殿



京浜国道(国道1号)を横断して、鳥羽伏見の戦いの発端になった「小枝橋」へ。

鳥羽伏見の戦い勃発の地

明治元年(1868)正月三日夕刻、この付近で起きた戦が「鳥羽伏見の戦い」の発端になった。徳川将軍家の領地返納を強行採決した薩摩・長州らの藩に不満を覚えた幕臣・会津、桑名らの藩が挙兵、大坂から京へ攻め入ろうとし、薩摩、長州の新政府軍がこれを迎えうった。
 城南宮には薩摩藩らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名藩が小枝橋を渡ろうと談判の後、ついに薩摩側から発砲した。この1弾があたかも合図になって戦端ははひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開された。幕府軍は約二万、新政府軍は五千の兵力出会ったが、新政府軍の大砲・鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻んだ。奮闘もむなしく幕府軍は正月六日ついに大坂城に向けて退陣した。この一戦を皮切りに、約二年間に渡る戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始ったのである。(京都市の説明板より抜粋)



戦跡碑



小枝橋

(左の写真) 「鳥羽伏見戦場」の石柱と「説明板」があるだけ、この先には橋はありませんでした。右折するとすぐに大通りがあり、ここに架かる大橋になんと「小枝橋」の名が刻んでありました。



 小枝橋からすぐのところに鳥羽離宮公園がある。この一角にこんな場所があり、説明碑がありました。ここも鳥羽伏見の戦いの戦場でもあった。



この後は鴨川の堤防道を南へ、
会津藩の戦死者を弔う碑がある法傳寺へ向う。


 河川敷の四角く切りだされたような大石が3個ある。鳥羽の大石というようだ。



歩いてきた鴨川堤防道から
小枝橋方面を振り返る。

鳥羽の大石
この石は、河原を公園化する際、龍門堰下流の鴨川の水中から引き揚げられたもの。ここ下鳥羽三町付近の鴨川に「鳥羽の港」があり、京の都へ人や物資が行き交う交通の要の港として栄えたと伝えられている。大地震のための修理で二条城へ運ばれる石材がなんらかの原因でこの川底に沈み、現在まで眠っていたと考えられている。二条城の石の石質や寸法、くさびの跡「矢穴痕」などがこの鳥羽大石とよく似ていることが判明している。


法傳寺と慰霊碑
12:30 法傳寺に着く。この寺には幕府軍の主力、会津藩の戦死者を弔う碑がある。歩いてきた鴨川はこの付近で桂川が合流している。法傳寺から左へとり、国道1号と油小路通りを横断して大手筋でJR桃山駅のゴール目指して東に向かう。



国道1号線の歩道橋から北方面を写す。中央奥にみえているアンテナのあるビル近くが名神高速京都南インターです。けっこう歩いたなあ。



新高瀬川に架かる橋をわたって大手筋へ。この酒蔵は松本酒造、伏見へスケッチにきて何度か描いている。やっと土地勘のある場所にたどり着きました。



大手筋の商店街を歩く。この商店街の中ほどを右へ行けば伏見御堂があるはず、探しに行こう。



会津藩駐屯地跡(東本願寺別院・伏見御堂)
内部は駐車場になっていてお堂などはないようだ。



京料理の魚三楼
表の格子に戊辰戦争の弾痕が保存されています。


伏見奉行所跡
石碑があるだけで、いまは桃陵団地になっている。

 伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町と伏見港を整備してからである。江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城跡地への入り口と港を監視する位置にあたる。
 明治維新の時(1868)幕府軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降は陸軍工兵隊の基地になっていたが、今は市営住宅になっている。



御香宮神社
安産の神として信仰を集める。
ここにも伏見の名水(御香水)がある。この表門は伏見城から移設された「旧伏見城大手門」です。


13:46 ゴールのJR桃山駅に着く。
京都行きの普通列車がホームに入ってきた。大急ぎでキップを買って駆け込みセーフ(^O^)



 何度もスケッチ散策に来ている「酒蔵のある伏見の町」ですが、今回歩いた幕末から明治維新の舞台となった歴史散策コースは初めて歩きました。いろいろ歴史を想像しながら歩くのは好きです。お天気にも恵まれて歴史散策を満喫しました。