標高335mの宇佐山頂上にある。
宇佐山城跡
(うさやまじょう)
2019・3・5



宇佐山
電波塔が見えるところが宇佐山頂上(本丸跡)です。
 宇佐山城は滋賀県大津市南滋賀町に残る中世の山城跡です。湖西周りで京都に向かうには避けては通れない位置にありました。十数年前に宇佐山に登った時は、城跡の石垣も見逃して単なる低山歩きでした。
 宇佐山城は元亀元年(1570年) 、織田信長が家臣の森可成に命じて築かせた。同年9月朝倉義景・浅井長政の連合軍が坂本へ押し寄せると、森可成は城を出て坂本で迎え撃ち討死。その後信長は明智光秀を城主にし、「比叡山焼き討ち」の拠点とした。元亀2年(1571年)光秀は坂本城を築いて移り、宇佐山城は役目を終え廃城となった。この城は、信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭である。(資料より一部転載)



今回の登山も前回と同じルートです。


”むし八まん宮”と刻まれた宇佐八幡石柱がある分岐
 近江神宮駅から約5分ほどでこの分岐に着きます。直進すると近江神宮内へ入って行きます。宇佐八幡へはここを左に撮ります。
 

宇佐八幡宮参道入口
 川に沿って上がって行くと、ここに着く。宇佐山城へは宇佐八幡宮経由で登って行く。このぺージトップの「宇佐山」の写真は分岐からここへの途中で見えた姿です。
 左手に見える石の鳥居をくぐると、舗装された急な参道道がつづく。
 

鳥居のところにある案内板には下記の説明が・・・
「御足形」この錦織郷に居を構えた源頼義公が八幡宮を創建せんと検分の時この岩上に神鳩が現れ建立の地に誘導す。依って治歴元年山腹に宇佐八幡宮を建立す。そこにあった岩面の沓型は御神示の跡で健脚を祈り霊験を受ける人達から信仰が寄せられている。


 近江神宮途の分岐から坂道を約15分、宇佐八幡宮表参道入口に着く。以前来た時もここからの道を歩きました。

 

 表参道では女性の登山グループが先行していました。男一人の登山とは違い、おしゃべりいっぱい、とても賑やかだ。彼女たちはこの先にある「宇佐山城跡」カンバンの所から登って行きました。
 

宇佐八幡宮
私はこの宇佐八幡にお参りしてから登山道へ。
 

八幡宮本殿横から登山道に入って行く。
先ほどの女性グループのすぐ後ろに出た。
 

子の登山道が宇佐山城への登城道か・・・
けっこう急坂がつづく。宇佐山城の表示が案内してくれる。


 

11:07 頂上直下の峠に着く。八幡宮から約20分、けっこう汗をかきました。ここは宇佐山城の縄張り図では左:本丸跡、直進は搦手道、右:三の丸跡の分岐点でした。
 

峠から巣にあるこの石段を上ると
本丸になる宇佐山頂上です。
  
頂上には電波塔施設がたっている。
ここには本丸跡の痕跡は残っていない。

 この先へ行くと一段下がったところに小さなスペースがありました。侵入できなくてそこは確認できませんでした。後日、下図で知りましたが、この先は二の丸でした。
宇佐八幡宮経由で登った道は縄張図の「登城道」でした。

  

宇佐山城址縄張図 (滋賀県中世城郭調査報告書より)

  ※前回登った時に下山したの道は、縄張り図にある「搦手道」でした。その時出会った電波塔整備の作業者から山中越えの道路につながっていることを知りました。そこから延々と続く自動車が行き来する舗装道路を歩いて下山することになりました。
 

電波塔施設(本丸跡)からは比叡山が見えている。
 

頂上には「宇佐山頂上335m」のこの小さな札があるだけ。
 

石段を下って本丸下を歩くと城の石垣の一部がありました。
   
宇佐山城跡の矢印に沿って進と城跡の痕跡が顔を覗かせていました。



本丸跡から反対側へ行くと展望もあるフラットな小広場でした。

  

ここが三の丸跡だった。


 

三の丸跡から琵琶湖展望を
ここでゆっくり休憩、昼食タイムとしました。


下山は・・・
 前回来た時、反対側の搦手道を下ってなが~い舗装路歩きとなった経験があるので、今回は同じ道を下ることにしました。
   
  登るときは足元ばかり見ていたため気づかなかった本丸下の石垣を発見することができました。
   

 、帰り道は、山道から宇佐八幡宮の境内に出て、正面石段を下りました。ここから少し下ると、宇佐八幡宮表参道入口がありました。
思いつきので出かけた「城跡めぐり&低山歩き」それなりの楽しめました。
滋賀県には沢山の山城や砦跡がある。次はどこへ行こうか・・・・