山背古道(やましろこどう)
2006・2・8



 山背古道は城陽市から井手町、山城町を経て木津町へと続く、南山城地方の古くからの道の一つと知る。「周辺には遺跡や文化財をはじめ、豊かな自然が広がり、道をたどると悠久の時の流れを旅するような、そんな不思議な感じが…」という城陽市観光協会の案内に魅かれて、OB会ハイキングの候補にと下見に出かけました。
 この山背古道は全長25kmと距離がある。今回は出かけるのが10時半と遅くなったので、その一部を歩くことに決める。コースの選択は以前から行きたいなあと思っていた蟹満寺がある「JR玉水駅から上狛」までの約10kmとしました。



駅からすぐの玉川(天井川)の堤防からJR玉水駅とみやこじ快速を写す。
守山からは新快速、みやこじ快速と乗り継いで約1時間で着きました(京都からは約30分)






天井川になっている玉川

 山背古道はこの玉川の上流(写真手前へ)にあるはずだ。GPSのスイッチを入れて、さあスタートだ!上玉川橋から南へ。スーパーの看板があるところで左折して東へ向かう。すぐに道標があり、そのまま直進すると橘諸兄旧跡とある。

道標に従いゆるい上り坂を行くと里山がまじかに迫ってくる。ちょっと小高い所の十字路に道標があり、山背古道と書いてある。ここで右折して山背古道を南にとる。のどかな田園の中を少し行くと「橘諸兄旧跡」の道標に出会う。





なんとなく山背古道の雰囲気を感じる。
中央遠くに霞んでいる山は奈良と大阪の県境にある生駒山です。





橘諸兄(たちばなのもろえ)公旧跡への分岐
(道標がある)左折して山道を東へ入って行くと、両側に竹林がつづく・・・



橘諸兄公旧跡
・・・5分ほど歩いていくとやがて左側に石段があり、登った所に「橘諸兄旧跡」の碑が建っています。
 橘諸兄は684年(天武13年)に生まれ、父は美努王、母は県犬養三千代、敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄です。本名は葛城王で、後に母の氏を賜り「橘諸兄」と称しました。738年(天平10)右大臣、743年(天平15年)左大臣になり、井手に住して「井手左大臣」と号しました。




今日歩いたGPSの軌跡
小さな四角がポイントです。
1、ひがしたまがわばし
2、山背古道出会い
3、橘諸兄旧跡
4、蟹満寺
5、JR棚倉駅
6、椿井大塚山古墳
7、松尾神社
8、JR上狛駅



竹やぶの中の道を進む
山背古道の雰囲気がしました。


 蟹満寺への山背古道は道標も少ない上に、川の工事で分断されていたり、道路上で下水道工事していたりで分かりづらい。綺田(かばた)という地名も読みづらい難しい地名だ・・・工事の人に聞いてなんとか蟹満寺に着きました。
蟹満寺は想像していたより小さなお寺でしたが、国宝「釈迦如来座像」は立派でどっしりしていて小さなお堂で釈迦如来さんがとても窮屈そうでした(^.^)。

釈迦如来座像(初唐様式の金銅像)

一千三百年前の白鳳時代の名作。八尺八寸(2.67m)、二千貫(7トン)
螺髪(ラホツ)と白毫(ビャクゴウ)をつけない人間味をおびた相好で、手の指間には水掻(みずかき)の如き曼網相(マンモウソウ)を具え生きとし生けるものをすべて悟りの世界へ救い上げるという形相が尊い。・・・蟹満寺の案内から転載



普門山「蟹満寺」の正面
(真言宗)



お堂の壁に金色の蟹の絵馬がかかっている。
蟹満寺縁起にでてくる蟹かな?

蟹満寺(カニマンジ)

 奈良朝以前、秦氏の一族秦和賀によって建立され、後に行基菩薩の関与により民衆の厚い信仰を集めた。今昔物語集巻十六第十六話等多くの古書に創建にまつわる有名な”蟹満寺縁起”が記されている。この縁起より、蟹の身代わり観音と称し、厄除、災難除けのご本尊として、古より人々の厚い信仰をあつめている。



風情のある集落の中を抜ける道



単線のJR奈良線

トンネルが見えますが、山をくり抜いたトンネルでなく、トンネルの上を不動川(天井川)が流れています。普段は、上流の水が木津川まで流れ込まずに、途中で川底に消えている。トンネルを抜けると棚倉駅だ。




JR棚倉駅

以前にここから南山城で人気のある三上山(さんじょうさん)に登って加茂まで歩いたことを思い出しました。
このときのレポートはここを気リックしてください。






棚倉駅の向かいにある涌出宮


涌出宮の鳥居と参道
涌出宮(わきでのみや)

和伎座天乃売神社(涌出宮)を舞台に、毎年2月15日から3日間にわたって執り行われる居籠祭(いごもりまつり)は、昭和58年に「棚倉の居籠祭」として京都府指定文化財の第1号で指定され、のち昭和61年には涌出宮(わきでのみや)の他の宮座行事とともに「涌出宮の宮座行事」として国の重要無形文化財に指定されました。南山城地方で最古の祭りです。




 棚倉を過ぎるころ、空がにわかに曇り雪混じりの冷たい雨と強風となる。真冬に逆戻りあまりの寒さに震え上がり、山側へ入る神童子(鳴子川沿いに山側に約2キロ東へ上がると、神童寺へ至る。聖徳太子創建と伝えられるお寺で、役行者の修行中に神童が現れて守護したので「神童寺」と呼びとある)はキャンセルして先を急ぐ。
 この神童子も以前三上山(さんじょうさん)に登っったとき、ルート図をみるとそばを通っていました。そのころは山歩きしか頭にないので気にもしていませんでした(^_^;)。

やがて集落の中に大塚山古墳を見つける。



大塚山古墳の中心部




小高い古墳の中心部からの眺め
前方の集落の前をJR奈良線が走り、家々はこの古墳の上に建っていることになる。


椿井大塚山古墳

 墳丘長さ175m、京都府で4番目の大きさの前方後円墳。後円部4段、前方部2段の築造構造を持っています。昭和28年、古墳の後円部を南北に切断する旧国鉄奈良線の法面拡幅工事により後円部の埋葬施設が発見される。竪穴式石室内から三角縁神獣鏡等38面以上の鏡を含む大量の副葬品が出土。出土遺物の回収と石室の調査および墳丘測量の緊急調査がされた。自然地形としての尾根を利用して古墳の形を造る「丘尾切断型」古墳の典型。
・・・・インターネットHPより抜粋させていただきました。・・・




松尾神社



本殿

 天武天皇が吉野山から東国へ向かう時、この地で大山咋神の化身「樺井翁」と軍議の後、翁が姿を消した跡地に宝珠を埋めましたが、701年(大宝元年)秦都理が霊夢によって宝珠を得、それを神体として宮殿を創建したのが当社の始まりで、拝殿と表門は、桃山時代に造立され、拝殿棟木の墨書から1610年(慶長15年)再建し、本殿は1808年(文化5年)奈良春日社の若宮本殿を移築していますが、表門西側の塀は、現存する国内最古の土塀です。


JR上狛駅前の通り(正面が駅です)



京都行きの普通電車が入ってくる。

上狛の町に入るころはかなりきつい雪、雨、風となり、明治時代100軒を超える茶問屋があり、神戸を通してアメリカへお茶を輸出していたことから、東の神戸と呼ばれていた茶問屋街には行けませんでした。