野洲川の南流址を辿る
2009年10月22日

 今日は近場でスケッチするつもりで自宅から散歩にでる。行先考えていなかったが野洲川堤防まで歩いていた。なんだかもっと歩いてみたくなり、JR東海道線の鉄橋から野洲川の左岸を琵琶湖まで辿ってみました。途中から、改修工事前(昭和54年)は暴れ川といわれた野洲川南流跡を琵琶湖岸までたどって歩いてきました。



近江富士(三上山)
新野洲川大橋付近より


 野洲川が下流で南流と北流に分かれるようになった時期は、おそらく中世の中頃以後であったとされます。北流は比較的早くから大河の状態で流れ、野洲川放水路ができるまで主流でした。一方、南流は小さくてゆるやかな流れがやがて大きな流れになっていきました。これは、守山市の小字図をみると、北流の流れに沿って村境が引かれていること、南流が流域にある村々の地所を分断していることなどから推定することができます。
 南流は守山市北部を北西に流れ琵琶湖大橋畔で、北流は守山市と中主町の境を流れて中主町吉川で琵琶湖に注いでいました。
                                   ・・・野洲川風土記より



新野洲川大橋の風景

 スケッチした後、一度歩いてみたいと思っていた野洲川沿いに琵琶湖まで歩いてみることにする。


振り返れば、銀色に輝くススキと三上山


前方(びわ湖側)の正面には比良山系



 たどってきた方向を振り返るとまだ三上山が見えているが、だいぶ歩いてきたなあ。ここの堤防下を見ると石碑がある。


それは野洲川氾濫の水災記念碑でした。


 
 野洲川は、古来より「近江太郎」とも呼ばれる暴れ川でした。周囲に住む人々は、たび重なる洪水氾濫のため多大な被害を受け続けてきました。特にここ笠原付近は、今は旧川となった南流への分岐点にあたり、洪水の流れが最も激しい所の一つでした。そのため、幾度となく堤防決壊をくり返したという古くからの記録が残されています。なかでも、大正2年(1913年)10月3日未明の出水は、約180mもの堤防を決壊させ、死者32名、流出家屋25戸、浸水面積約300ヘクタールという未曽有の被害をもたらしました。その後も人と川の戦いが続きましたが、昭和28年9月の台風13号による大災害が契機となり、野洲川改修工事が始まりました。昭和46年に南流と北流の中間に法水路を建設する工事が開始され、昭和54年には新しい野洲川が誕生し、現在の姿となりました。この水災記念碑は、大正2年に堤防が決壊した場所に立てられている。



 水災記念碑を過ぎると新庄大橋が見えてくる。まだまだ湖岸は遠そうだ。そろそろ南流との分岐だ。堤防を下って笠原の集落へ入っていく。守山北高横を通って左斜め方向に進む。

やがて国道477号の「浜街道」に着く。


浜街道の「JAおうみ冨士ファーマーズ・マーケットおうみんち」に到着。旧野洲川跡に牛が二頭放牧されていて、三上山をバックにしているが不思議な光景だ。




列系図橋跡を走る国道477号(浜街道)
 列系図橋(れっけいづばし)はご覧のように石柱だけが残っている。洲本町と水保町の間、野洲川南川(南流)に架かっていた「列系図橋」から下流は公園(びわ湖地球市民の森)に変わっている。


浜街道を横断して「びわ湖地球市民の森」に入る。そこから振り返ると「おおみんち」の建物の右横に三上山がまだ小さく見えている。


「びわ湖地球市民の森」
旧野洲川の跡を公園に・・・

「びわ湖地球市民の森」
旧野洲川(南流)跡は下流方向へ公園整備の工事が続いている。


湖岸に近づいてくると、せき止められた南流が・・



南流跡の堤防道
湖岸のラフォーレ琵琶湖が見えてくる。

琵琶湖岸に到着

良く利用する湖岸道路から見られる風景
いままでは小さな池かと思っていたが、堰き止められた南流跡だったんだ。

琵琶湖大橋袂の大型店舗「ピエリ守山」のところに出る。
さすがに5時間も歩くと足にまめが・・
帰りはこのピエリ守山前からバスに乗りました。

野洲川のことちょっぴり知ることの出来た河川敷歩きでした。次は北流跡がどうなっているのか気になってきました。また機会があったら訪ねてみようかな・・・・