2005・3・27
たまたま本屋さんで「安土城・信長の夢」(発掘調査の成果)という本を見つけました。その本に感化されて、戦国時代の幕引きとして天下統一を行った織田信長の夢の跡に思いを馳せながら安土城跡を散策してきました。この史跡は昭和十五年(1940)の発掘で天主、本丸の礎石が完全な姿で発見されたとあります。その天主の様子は 信長の館(超低山「安土山」のレポートを参照) で見ることができます。 |
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近江風土記の丘の石碑のある北腰越 ここから能登川へつづく県道を沿に大手道方面へ歩く。 |
大手道の石段石垣 この道は大手口と場内を結ぶルートです。直線的に石段の坂道が180mあり、主要部へとつながっている。最近の調査では黒金門ではなく、本丸南東虎口に続いていることが明らかとなった。 |
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発掘中の大手道付近 |
安土城址の大きな石碑がある百々橋口道の石段。ここを登るとハ見寺跡をとおり安土城の中枢に行ける。 |
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城下町と場内を結ぶ百々橋口道(どどばしぐちみち)は、唯一記録上に現れる道とのこと。調査の結果、石段は改修されていたがルーと自体は変化がなかったことが確認されました。ハ見寺は信長が安土場内に建立したお寺ですが、幕末に主要な建物が焼失して現在の場所(大手道近くに)に移されたました。それまでは百々橋口道上で信長の菩提を守り続けてきました。今は仁王門と三重塔だけが残っています。 |
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百々橋口の「百々橋」 |
安土山を一周する道を進む |
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やがて民家が見えてくる。その入り口に右の山手に入る道がある。あらかじめ地図で確認していた小山越えのきぬがさ地区への道だ。迷うことのないはっきりした道でした。 |
きぬがさ地区へ峠越えをした所に小さな社「中之湖神社がある。とりあえず安土山の先端まで歩いてみる。途中でであった畑作業の人に聞いたら今歩いている道路が湖岸だったとのこと・・・ |
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安土山の先端から引き返し、搦手口の登山口を探したが、見つからない。地元の方に聞いたがそんな道は今はないとの返事でした。やがて県道の北腰越に着く。そのそばの草むらの中に石段がが見える。そこから稜線沿いに安土城天主を目指す。 |
杉の樹林帯の中にショウジョウバカマが咲いていた。低山ももう春の兆しですね。 |
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この道は石仏を拝んで回るようになっている。 |
お城を思わせる石垣があちこちに現れるが、やがて尾根道に入ると寅ロープが張ってあり、どうも進入禁止の表示のようだ。先行していた男性もく引き返してきた。地図の×印のところです。 |
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天守閣の郭跡大きな礎石が整然と並んでいる。 |
天主の石垣と通路の石段 |
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黒金門跡 |
黒金門の所にあった安土城中枢部の案内図 天主、本丸跡は歩けるが、八角平、搦手口へは進入禁止。探検はあきらめざるを得ない。 |
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黒金門 この門は、安上城中枢部への主要な人り口の一つである。周囲の石坂をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石が大きい。平成5年度の発掘調査では、黒金門付通も天主とともに天災にあっていることが分かりました。多量の焼けた丸の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれゐ黒金門より先は、信長が選ばれた側近たらと日常生活を送っていた、安上城のまさに中枢部となります。高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安上山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数ヵ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道、七曲口道からの入り口なのです。 |
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天主跡から戻りこの大手道を眺めてハ見寺跡へ向かう。 |
三重塔のあるハ見寺跡で昼食をとりながら西の湖方面を見る。昔は真下の民家などがなくすぐに湖面だったのが想像できる・・・ |
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西の湖の向こうに近江八幡の市街と八幡山が展望できます。 |
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ハ見寺の三重塔 |
急な石段の途中にあるハ見寺の仁王門 |
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ハ見寺の仁王門をスケッチしました。 |
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車を止めた安土城考古博物館(中央の建物)まで戻ってきました。右端の黒っぽい建物が「信長の館」、背景の山は観音寺城跡や観音正寺、桑の実寺がある繖山(きぬがさ)です。 |