今井町の町並散歩から畝傍山へ
奈良県橿原市今井町(重要伝統的建造物群保存地区)
2016・3・3
 浪漫会の3月度スケッチ会は奈良の今井町でした。 10:00 集合時間より30分早く近鉄八木西口駅に到着。グループ代表のYさんと数人がすでに待っている。挨拶して、今井町の資料と案内図をもらう。今井町は2度ほど来ているので、どこを描くなど考えもしないで、資料はバックに入れたまま、時間待ちの間に少し偵察しようと駅からすぐの蘇武橋まで行く。そこで対岸にある巨木が目にとまる。橋を渡ると巨木の向い側につるべの下がっている瓦屋根付きの井戸がある。傍に行ってみると蘇武井と案内板にありました。そこから見えるすごい存在感を示しているエノキの巨木をさっそく描くことにしました。




蘇武井(そぶい)
 飛鳥川に沿って2つの「蘇武井(そぶい)」がある。日照りが続いても涸れることはなく、今井の里千軒の家々に使われていたそうです。聖徳太子も飛鳥への道中、ここで駒を休めたとか。


今井町の町並、後方には大和三山の畝傍山が見える。
(蘇武井から南方向の風景です。)
今井町はこの通りを渡った右側一帯です。




 

蘇武橋袂のエノキの巨木が目にとまりました。
右端に少し描いている赤い欄干が飛鳥川に架かる蘇武橋です。



・・・ 重要伝統的建造物群保存地区の今井町は ・・・
 かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した町。現在も500軒の町屋が連なり、町全体が江戸時代の姿を残しています。

 ※右の「ガイドマップ」をクリックすると
拡大図が見れます。
 


河合家
 表通りから中尊坊通りを入って行くと、すぐに杉玉がぶら下がってい古民家がある。ここは江戸時代、「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいた。利き酒は後にして散策に向かう。


防御のことを考えたかぎ型の辻だ。
 まだ昼には早いが、スケッチする前にまずは腹ごしらへ。そば屋さんを探して町中を行く。

  
 今井の地名は至徳三年(1386)の興福寺一乗院の文書にみえますが、今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532~1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町が建設されたことに発します。一向宗の門徒が、都市計画に基づき今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらしました。永禄十一年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛以来、本願寺は反信長の旗を立て、今井もそれに呼応し、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗しましたが、天正三年(1575)明智光秀を通じて信長に降服し、事なきを得ました。かくして、大坂や堺などとも交流がさかんになり、商業都市としての変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、大いに栄えました。また、堺と並び自治的特権が認められ、惣年寄、町年寄がおかれて町政を担いました。
 今井町の町並みは「称念寺」を中心とした寺内町です。江戸時代初期の概略では、東西600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた戸数1100軒、人口約4,000数百人を擁する財力豊かな町でした。町割は西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡しています。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてあります。これは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にするためでした。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものですが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変貌しました。現在も、今井町の大半の民家が江戸時代以来保っており、慶安3年(1650)の今西家をはじめとして、美しい民家が数多く建ち並び、今なお、町全体が戦国時代にできた寺内町の歴史の重さをずっしりと感じさせています。

  橿原市観光課のページ「歴史街道 ならかしはら 今井町」から一部を転載させてもらいました。
詳しくはクリックして覧ください。


 今井町の中心といわれる「称念寺」の工事中の大屋根が見えてきた。手前右手は案内所兼休憩所になっている「夢ら咲き長屋」です。ここでトイレを借りて、蕎麦屋さんの場所を聞く・・・。


町屋茶屋「古伊(ふるい)」
教えてもらった一本右の通りの本町通にありました。
温かいきつねそばが550円、安くておいしかったよ(^^)。
   
 蕎麦をいただいて準備OK、スケッチポイント探しながら本町筋を歩いて今井町の西端、今西家のある西口門まで行く。 そこから環濠沿いに左へUータウンして春日神社の境内を横切って、称念寺のある御堂筋にでる。右折して通りを東へ。すぐに右手に称念寺の工事屋根が見えてくる。その手前左側に立派な家が、伝統的建造物のある風景を描かなければと、さっそくスケッチする。あとで分かったが、ここは豊田家住宅でした。






豊田家住宅

偶然に気にいって描いたお家が豊田家住宅でした。旧は材木商「西の木屋」牧村家の所有で、幕末には大名貸しを行い藩の蔵元等をつとめていた豪商だそうです。建物は寛文2年(1662)に建てられたもので、今西家住宅と並んで今井町における上層町屋の好例だそうです。





スケッチした場所の反対側からの豊田家住宅です。




 ここで、スケッチしたいと言っている仲間の女性三人と出会う。彼女らはこの構図で描くと決めたが、その前に最初に通った造り酒屋「河合家」へ行きた行きたいというので私も同行する。

 お店のおすすめは出世男(右の写真)、しばりたてと吟醸酒を試飲させてもらう。私はお土産に出世男の濁り酒を1本購入しました。 この造り酒屋でスケッチメンバーと別れてる。、


河合家の中をちょっと見学
 私は別の場所を散策しようと、いったん表通りに戻る。スケッチ時間は午後4時まで、そのあと駅前に集合して打ち上げをする予定になっているが、まだ時間は1時半だ。 古民家のスケッチは難しくて苦手なので、他を探そうと、とりあえず橿原神宮方面を目指して歩く。たが気に入ったスケッチポイントが見つからない。 そうだ、スケッチは終了して、ここから望める大和三山の畝傍山に登ってみよう。


この続きはページが長くなるので、畝傍山登山は別ページにさせてもらいます。
続きは表題をクリックしてください。➡ ・大和三山の畝傍山登山のページへ