電動自転車を借りて

守山市埋蔵文化財センター訪問

(2013・11・03)
 今日は文化の日、手元にあった埋蔵文化財センター「秋季特別展「発掘された守山の古墳」(11月2日~24日)のチラシを見て、ちょっぴりそれらしいことをしようと出かける。埋蔵文化財センターは服部遺跡の所だ。以前に自宅から「野洲川南流址歩き」をしたルートで行くと決めたが、かなりの距離がある。そこで守山市駅前総合案内所のサービス(観光用として無料で貸し出している)電動自転車利用をさせてもらうことにしました。守山駅前から自転車で1時間かかると教えてもらい、地図をもらって野洲川目指して走り出す。




野洲川橋と三上山(近江富士)


野洲川の左岸堤防の道を下流へ
  




案内所で借り電動自転車とた川田の一本松

次に架かっている近江富士大橋を過ぎて少し行くと
木々の茂っている場所に着く。
そこには川田の一本松という案内板がある。


 ・青いラインが今回自転車で走ったルートです。



下記の参照レポートも合わせてご覧ください。
野洲川南流址をたどる(2009年10月22日レポート)
・赤のラインがこの時の歩いたルートです。



 
川田の一本松

 以前、守山市川田町の野洲川左岸に神木の老松が生えていた。この松の由来は室町末期から江戸時代にかけてのころ、野洲川の大洪水のため度々堤防が切れ、その度修復を繰り返したが、なかなか治まらなかった。このため堤防の安全と鎮水を願って江戸中期に松を植え大神宮を祀ったものと伝えられて来たが、野洲川改修工事で支障があるため昭和50年8月に伐採されました。古来より神木として住民の崇拝の的であったことから、地元の強い要請で神宮庁より代替の松一本と杉日本を拝受し同年12月天神社境内で遷宮と植樹祭が行われた。

昭和の野洲川改修工事については下記「洪水への備え」をご覧ください。


 


振り返って見た川田の一本松の茂み
今日訪問する「守山市埋蔵文化財センター」は
下記の「洪水への備え」の野洲川放水路工事と大いに関係があります。
施設のある服部町の新川の川床切削工事から遺跡が発掘されたからです。

                                 洪水への備え

 野洲川が洪水を繰り返すたびごとに、人々は何百年もの間にわたって、堤防のかさ上げや補強をしたり、堤防に植栽をしたり、堤防を守る厳しい掟(おきて)を定めるなどの取り組みをすすめ、家や田畑を守ってきました。
 しかし、流れが南北の二つに分かれ、川幅が上流部よりもせまく、しかも大きく曲がりくねっているため、どんなに手直しをしても、川底は高くなるばかりで、ひとたび大水になると、被害はさらに大きくなる心配がありました。
 昭和28年(1953)9月の水害をきっかけに、そのたびごとに災害復旧工事を繰り返すのではなく一定の計画によって野洲川を根本的に改修し安心できる川にしてほしいという願いが地域住民のあいだで高まり、昭和29年に関係の13町村によって野洲川漏水対策期成同盟会(のちに野洲川改修期成同盟会、野洲川改修促進協議会)が結成されました。その後、滋賀県を含めた国への働きかけと関係機関との協議の結果、昭和33年度から国の直轄事業として調査が開始され、昭和38年に野洲川改修の全体計画が策定されました。その計画では、南流と北流を手直しするのではなく、守山町(当時)の新庄の川辺全戸と小浜の一部を移転して、中洲の田畑190haの中を新庄からほぼ直線に長さ約7km、幅約330mの新しい河川、野洲川放水路を建設するものでした。
 そして、用地問題や移転先などについての何回もの話し合いを経て、昭和46年12月9日に改修工事が開始されました。工事では、全体で約620万m3もの土砂を掘り出すために掘削、連続掘削、浚渫の3つの方法が使い分けられました。野洲川放水路は、天井川の解消という目的のためにかなり深く掘る必要があったこと、そして流路が従来よりも短くなることから、放水路の上流端(河口から約7km)に高さ約3.5mの落差工が設けられ、川の流れをゆるやかにすることにしました。また、放水路によってそれまでの交通が遮断されるために6本の橋が新たに建設されました。
 工事は、8年の歳月と約200億円の費用をかけて昭和54年6月2日に野洲川放水路通水式が行われ、南流と北流に代わる新しい野洲川に水が流れ始めました。
(野洲川風土記HPより転載)
 


新庄大橋が見えてくる。
 埋蔵文化財センターが近くなってきた。守山駅から途中寄り道(JA農業祭など)をしながらのため、 約1時間もかかってしまった。
 


新庄大橋の上から
橋を渡って野洲川の右岸へ。


  
 


前方の木々の右端が埋蔵文化財センター
電動自転車だがけっこう疲れました。
 
守山市立埋蔵文化財センター
 the Centre Archaeological Operation : Moriyama

野洲川河口に建つ遺跡発掘調査の拠点

 鈴鹿山系を源流とする野洲川の河口一帯は肥沃な平野が広がり、古代から水田耕作がおこなわれていた地域。 近年、マンション建設など宅地開発にともなう発掘調査成果から、この地が考古学上、県内でも最も注目される地域となった。 それら遺跡と発掘された出土品など埋蔵文化財の調査研究・保存をおこなっているのが、市立埋蔵文化財センター。 野洲川改修工事の際に偶然発見された服部遺跡の調査をきっかけに、文化庁と県の補助を受けて、昭和55年(1980)に県下初の本格的な調査研究施設として誕生した。

 第一の機能は発掘の拠点となることで、調査員らは朝出勤後、すぐに数ヵ所(多い時期は7~8ヵ所)ある発掘現場へ赴いて調査にあたり、夕方センターへもどってから報告書の作成にたずさわる。 そのため、展示スペースは副次的なものとなっているが、収蔵品のレベルは高く、県内外から考古学ファンも多く訪れる。 団体の場合、事前に連絡すれば整理室での実際の作業のようすを見学することも可能。
以上、守山市立埋蔵文化財センターのページから
転載させてもらいました。
http://www.lbm.go.jp/kenhaku/shoukai/19.html

詳しくは守山の遺跡紹介をご覧ください。



守山市立埋蔵文化財センターの玄関
紅葉した桜が建物によくあっている。


玄関横にあったモニュメント「銅印と木櫛」

 
銅印
 昭和51年、ここ服部遺跡から発見された珍しいものです。印面四方の一辺が3.3cmの角印で高さ4.3cmです。印の文字は「乙貞」です。奈良時代の貴族が使用したらしい。
木櫛
 服部遺跡の弥生時代の溝跡から発見された。表面は朱塗りで赤くなっています。このモニュメントは木櫛を逆さにして置いています。
埋蔵文化財センター内の展示



 
主な展示は土器、木製品、円筒埴輪(服部遺跡)、人物埴輪、
馬形埴輪(川田遺跡)、盾形埴輪(酒寺遺跡)、巫女型埴輪(欲賀南遺跡)など



展示1
 



展示2
 
 


大阪からの見学者

おかげで、センターの技術者からこの施設と守山の遺跡についての説明が聞けました。




埋蔵文化財センターの傍にあった神社
神社の石段あたりが旧野洲川(北流)の堤防の一部だそうです。
ここは野洲川歴史公園、サッカー競技場があります。
 

 野洲川の改修・保全事業が完成することを記念して建設された。日本サッカー協会の「サッカーを中心としたスポーツ環境整備モデル事業」の一環として日本サッカー協会の助成金2億1400万円を得て地域のスポーツ文化の活性化を目指して整備された。総工費約9億5000万円、2005年10月1日開業。サッカーコートが3面もあります。

琵琶湖方面( 帰り道通った稲荷大橋から)
見えているのは天満大橋です。その先に中主大橋があり、そこが野洲川の河口、すなわち琵琶湖岸です。
雨が降り出して霞んで見えています。雨の中自転車はつらい、大急ぎで戻りました。



野洲川散策参照レポート

野洲川南流址をたどる(2009年10月22日レポート)