長岡京から岩清水八幡宮

2005/5/5


 
 JR長岡京駅には昨年5月OB会ハイクできたことがある。そのときは長岡天満宮から楊谷寺(柳谷観音)→天王山→サントリー山崎蒸留所→JR山崎というコースを歩きました。今日はスケッチでもしようとふらっと立ち寄りました。駅に備え付けてあった「長岡京市ふるさとガイド・マップ」を見て勝竜寺城公園から恵解山古墳、丹波街道と歩いて牡丹の乙訓寺を回るショートコースに決める。



国登録有形文化財石田家住宅(主屋)


JR長岡駅から旧西国街道を南へ歩くと解説板がある石田家住宅に出合う。

 この住宅は切妻造りで、北東南三面に庇を廻し、屋根の西側に煙出しがある。表の構えは格子と出格子を並べ厨子二階(屋根裏部屋)は白壁で虫籠窓(むしこまど)が二箇所開き、端正な表情をみせている。ここ神足(こうたり)は商人や職人が軒を並べ、西国街道沿いの町場としては山崎、向日町とともに江戸時代からにぎわっていた。この住宅は神足村旧家の商屋を石田家が購入したもので、江戸時代には「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたようです。(解説版より抜粋)



神足神社



緑に囲まれた神足神社の境内

 この道には神足神社の祭りの旗が軒々き出ている。石田家を過ぎて左折するとJR東海道線のガードとなる。ここをくぐり直進、ガラシャ通りを横断すると神足神社の森がある。どんな神社なのかちょっと寄り道してみる。街中から一変して静かな神社の境内だ。

神社から引き返し、ガラシャ通りを南へ少し歩くと隅櫓と堀が見えてくる。ここが勝竜寺城公園だ。この城跡が管理棟、櫓や庭園などを備えた都市公園に復興されています。



高麗門と休憩所と埋蔵品の展示がしてある管理棟


隅櫓
 

歴史とロマンを秘めた城

 この城は、暦応2年(1339)細川頼春が京都へ進出してくる南朝方に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いたといわれ、京都盆地の南西部を防衛する要所にありました。

 応仁・文明の乱(1467〜)では西岡地方における西軍(畠山義就)の拠点となり、戦国時代になると、永禄11年(1568)に織田信長が上洛し西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちの幽斎)に城が与えられ、堅固な城に改修しました。天正lO年(1582)の山崎の合戦では明智光秀が本拠としたが、落城した。 この城は天正6年(1578)に光秀の娘玉(のちのガラシヤが16才で長男忠興のもとに輿入れしたところです。 
 すぐそばの勝龍寺を見て小畑川に出る。この川は勝龍寺城の「外堀」の役目を果たしている。ここが大手門で、かかる橋は「大門橋」と呼称されて来た。この橋を渡らず右へ堤防の道を行く。すぐ犬川が合流してくる。勝竜寺城はこの二つの川を外堀にした立地を選んでいる。橋を渡りるとすぐに恵解山古墳(いげのやま)がある。

恵解山古墳
 古墳時代中期に築造された乙訓地域で最大の規模を誇る前方後円墳です。後円部西側から、築造当時の状態で埴輪(はにわ)列が出土し、祭祀の場とされる。一帯の支配者の墓とされ、これまで大量の鉄製武器の埋納施設などが確認されている




西国街道の石標のある通り。

 JR山の高架を渡るとふたたび西国街道に出合う。乙訓寺の牡丹もいいが天王山が気になり山崎方向へ行き先変更する。
 またまた道標があり、「右 やなぎ谷」こちらは昨年訪問した楊谷寺がある。ここでもまたまた歩行転換して「左 よど」へ(^_^;)。




この通りはサントリー通り(府道204号線)とガイドマップにある。少し歩くと大きなサントリービール京都工場があり通りの由来を納得する。


サントリービール京都工場




歩を進めると中山修一記念館が目に入る。気になりのぞいてみると「幻の都」長岡京の解明に生涯を捧げたとある。早速見学させてもらいました。

中山修一記念館(2002年オープン)
 長岡京発掘の歴史や先生の偉業を紹介しています。中山先生の1万冊を超える書籍などが保存してあります。記念館はご遺族から寄贈を受けた自宅の一部を家屋の風情を残して改修されたものです。
住所:長岡京市久貝3丁目3番3号
 電話:075-957-7176
 毎週火曜日は休館(年末年始は12月28日〜1月4日)

 入場は無料。案内の人が中山先生が幻の長岡京から都跡を発見された経緯を親切に説明してくれました。そのきっかけは古文書の記録にあった蓮田を発見されたことから長岡京の全体像の図を描かれ、昭和29年(1954年)、朝堂院の南門である会昌門を発見され、長岡京は”幻の都”でなく、”現実の都”であったことを立証されました。



館内にある説明と展示


中山先生が自筆で描かれた長岡京の地図




 中山記念館をあとにして、淀へ向かう道から振り返ると天王山が横たわっている。
そこから淀へと歩を進める。国道171号線、名神高速道路、JR新幹線を越えて桂川にかかる宮前橋を渡ると京阪電車のよど駅に着く。歩いている途中から今日の最終地を八幡市の男山と決めていました。男山の山頂には有名な石清水八幡宮がある。電車で通るたびに車窓から眺めて気になっていた山だからです。今回がはじめての訪問となりました。


・・・ 見逃した史跡淀城(後で調べて分かったことです) ・・・

 京阪電車の淀駅プラットホームから目と鼻の先に見えた石垣は淀城天主台のものでした。本丸南側の堀が今はプラットホームなのだ。現在の城跡は、本丸部分と西・南部分の堀が残っている。そうと分かっていたら引き返したのですが後の祭りです。

築城は元和9年 天主台、石垣、曲輪、堀などの遺構がある。
管領細川政元が築城し、次に豊臣秀吉がこの城を改修、愛妾茶々(淀君)を住まわせた。豊臣氏が滅ぶと今度は徳川幕府が伏見城を廃しここに築城、明治まで代々京都の守護の任に当たったとありました。


淀駅からは八幡市へは一駅。少々バテ気味だったので男山山頂へはケーブルを使いました。もちろん下山は歩きましたよ(^_^;)。


石清水八幡宮の表参道
 
 
日本全国に八幡とつく神社は多いが、石清水八幡宮は九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともにわが国の歴史上、極めて重要な地位を占めてきました。
その歴史は古く、今も昔も全国津々浦々より多くの人が参拝に訪れている。
また神社のある男山は、京都の南西・裏鬼門にあたり、木津・宇治・桂の三川の合流点を挟んで天王山と対峙する交通の要地、政治上の重要な拠点に位置している。

石清水八幡宮の創建
は平安時代初めの貞観元年(859)、大安寺の「行教」という僧が豊前国(大分県)の宇佐宮におこもりになった際、八幡大神様の御託宣を受け、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安したことにはじまる。



正門


改修中だった本殿


クスの巨木



表参道をくだり京阪の八幡市駅へ戻りました。

今日はふらっと立ち寄った長岡京市で、偶然に中山修一記念館に出合えたことは歴史散歩(史跡めぐり)をはじめた私にとって、とても有意義な一日となりました(^.^)。