18切符で雑賀崎と和歌山城へ
(2013・8・29)

 夏シーズンの青春18キップの有効期限も迫ってきたので出かけることに、すぐに思いついたのは和歌山市の雑賀崎でした。ここは今年2回訪れているが、なんとなくもう一度スケッチ散策がしたい。それに同じ和歌山市には和歌山城がるからお城シリーズでここも訪問したい。あまり遠くないので朝はゆっくりめの午前8時過ぎの守山発の新快速で出かけました。11時過ぎに和歌山駅に着いたが、雑賀崎行のバスは出たところ、1時間に一本のバス(平日は毎時05分発)待ちかねて、本数の多い和歌浦口行きで出発。




雑賀崎の港が一望、灯台も見えている。

 和歌浦口から和歌浦まで歩いて雑賀崎行きバスを待つ。バス道は海岸線に沿って高度を上げていく。ちょうど雑賀崎が一望できる所に来た所のバス停・観潮遊園で下車する。ここは雑賀崎バス停二つ手前でした。バス停近くの高台へ少し登ったところの展望のよい所でまず1枚目をスケッチする。ちょうど昼時だが、以前来た時も食事どころを探したが食堂らしきものはなかった。とりあえず海辺まで下りて行こう・・・・




 狭い階段道を下って海岸通りにに着きました(写真左上)。誰かに聞いてみようとしたが人影は見当たらない。そこでこの前に来た時歩いた路地へ。入口に理髪店があってその奥にお店があったように記憶している。路地の入り口に着いた時、地元の老人が歩いてきた。”何処か食事するところありませんか?”と聞いたら、”雑賀崎にはないよ”との返事。困ったなあと思っていたら、そこへ老夫婦が路地から出てきた。その老人がこの方に”まだ弁当残っているか?”と聞く。老婦人が”これから出かけるところで店を閉めたところだけど、いくつか弁当が残っているよ”といって親切にお店に戻ってシャッターを開けてくれました。”シャッターは閉めるけどゆっくりここで食べていいよ”といってくれる。その老夫婦のお店の前で、路地を吹きぬける心地よい風に吹かれながらオニギリ弁当をいただきました(写真右上)。 さあ、今回はどこを描こうか・・・とりあえず行ったことのない雑賀崎灯台下の防波堤へ行ってみよう。





防波堤のテトラポットに腰掛けて「雑賀崎灯台」の見える岸壁を描いてみました。



下津が遠くに見える
(スケッチした岸壁の反対側)



スケッチした岸壁
青緑のちょっと変わった岩肌です。


漁港の先端の風景
 さあ、次は急坂に密集して貼りついている住宅の細い路地を歩いてみよう。









こんな狭い階段道が迷路のようにつながっている。



迷路の途中から下を見る。
集落と海岸です。



高台の舗装路から先ほど描いた岸壁です。
雑賀崎灯台が右端に見えています。



風はさわやかだが直射日光の下で歩くと汗が噴き出す。
もうスケッチをあきらめて、次の訪問地の和歌山城へ行こうとバス停へ・・・




雑賀崎漁港と急坂に密集して貼りついている集落

バス停に着いたらバスがちょうど出たところ、次のバスまでの時間をスケッチして待つ。





バス停近くの高台から



雑賀崎バス停



次はバスで市内の中心街にある和歌山城へ。
和歌山城へは旅のついでに二度ほど訪れていますが、
天守描くには上がっていない。




公園前にしバス停で下車すると
前が一の橋・大手門でした。



城内の石垣に沿って天守へ向う。




今回は初めての道、表坂から天守へ。
前回来た時は裏坂を歩いて天守へ登りました。
アプローチの道で雰囲気が全く違うなあ・・・



和歌山城の天守閣
下の建物で入場料を支払って天守へ




天守への入り口にある重厚な門



小天守が入口になっている。



和歌山港方面



中央あたりがJR和歌山駅です。
手前の森は和歌山城の二の丸御殿跡です。

天守の最上階は360度の素晴らしい展望が見れました。






天守閣の上からの展望
中央左のビルの後ろの低い山が先ほどスケッチ散策した雑賀崎です。





西の丸広場からの和歌山城天守と城壁

 和歌山城は徳川御三家だからてっきり徳川家が造ったお城だといままで思い込んでいました。しかし、このお城のはじまりは豊臣秀長が兄・秀吉の命を受けて天正13年(1585)に築城にとりかかったという。このことは今回の訪問でもらった和歌山城のパンフレットではじめて知りました。本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から見た形が虎が伏した姿に似ていることからこう呼ばれている)山頂にあり、東部の本丸御殿と西武の天守閣(曲輪)で構成されています。 後に徳川御三家・紀伊徳川家の居城となり、幕府の西国支配の拠点としたという。それにしてはこの場所(和歌山市)に疑問が残るなあ・・大坂や京都なら納得できるが、皆さんはどう思われますか?

 江戸初期の天守は弘化三年(1846)の落雷により焼失しました。徳川幕府は通常、城郭再建を許さなかったが、徳川御三家の居城だったため特別に許可され4年後の嘉永三年(1850)に再建されました。

 この再建天守は、昭和20年(1945)の空襲で再び焼失しました。その後、市民の熱意によって昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りの天守閣が復元されました。




*** 雑賀崎関連ページです ***

・雑賀崎から紀三井寺までハイク 2013.3.30

・雑賀崎散策  2013・1・27