秋のOB会ハイキング番外編です。
2017・10・26

  今年の秋のOB会ハイキングは京都、新撰組ゆかりの地を散策するという企画でしたが、うかっとしていて、この日の朝になってハイキング日だったことに気づきました(^^;)。それで30分遅刻となり、二条城見学はパスさせてもらって、午後からのコースに合流することにしました。その時間つぶしに二条城前の大通り、堀川通りに沿って流れる”堀川の遊歩道”をはじめて散策しました。


 

二条城の東大手門
見学はこの門から入ります。

 

 堀川にかかる二条橋から見えた遊歩道です。この遊歩道のあることを初めて知り、興味を覚えて歩いてみることにしました。
 

遊歩道のコース案内図に”一條通り「戻橋」”があるのに目にとまりました。なぜかというと、二年前、阿部清明の「清明神社」へ行った時に境内にあった「 旧・一條戻橋」の一部と”いわれ”を知っていたからです。ということで戻橋まで歩くことにしました。

                             ・・・・・ 堀川について ・・・・・
  現在の堀川は、琵琶湖疏水第二疏水分線の水を賀茂川を下越させ、紫明通・堀川通の中央分離帯の中に整備された水路を経て、今出川通で既存の開渠部に繋がっている。一条通の一条戻り橋を経て、御池通までが開渠部である。 そこから南は再び暗渠となり、西本願寺の東でわずかに地上に現れるほかは堀川通の地下を流れる。近鉄京都線上鳥羽口駅の西で開渠となり、すぐに鴨川と合流する。(ウイキペディア フリー百科事典より抜粋)
 
歴史・職人の街

 堀川周辺には、堀川の流れに関係する歴史や伝統産業が多く残され、職住共存の京町屋の姿も多くみられます。 平安京造営後、堀川は物資を運ぶ水運にも利用されましたが、友禅染の水洗いにも使われました。堀川沿いの友禅染で使われた水が堀川に流され、川が藍色に染まったとも言われています。現在でも、堀川通周辺には染色業者が何軒もあり、伝統の友禅染の技を伝える職人が活躍しています。また、かって堀川に流れ込んでいた小川があった小川通りには、裏千家、表千家の両家の家元が立ち並んでいます。 その他、堀川周辺には多くの見所が残っており、歴史・職人の街として今も生き続けています。(現地の案内板より)
 

遊歩道で見た案内板、「石垣に刻まれた史跡二条城の歴史」に興味を覚える。


 このあたりの石垣は、二条城築城に伴って慶長8年(1603)頃に築かれたもので、昭和14年(1939)11月30日に二条城とともに国の史跡に指定されています。 東側の石垣とは積み方が全く異なることが一目みて判ることでしょう。
 堀川に架かる二条橋の北側には「是ヨリ北紀州」と読める銘文が石に刻まれていることから、慶長5年(1600)から玄和5年(1619)まで紀伊国を治めた紀州浅野家が北の石垣普請を担当したと考えられています。
 その他、21箇所の刻印が発見されています。それらの刻印は、工事にかかわった大名たちが受持ち分の石材が集石場や輸送の途中で分散したり紛失したりすることを防ぐために目印として刻んだもので、今風にいえば製品のタグと考えられています。これらが見つかる範囲は夷川橋の北から二条橋の南までで、刻印は切り出した石の表面をさほど加工せずに彫り込まれているため、見過ごして通り過ぎてしま物が多く、石の隙間をのぞき込んでやっと見つけられるものもあります。(京都市)

さっそく石垣の「刻印」を探してみたら◎刻印が案内板とおりに夷川橋の下で見つかりました。
 

夷川橋の下石垣 
 

左の写真、 ◎印の部分を拡大しました。
 

見つけた刻印ー2
 

二条橋近くで見つけた刻印ー3
「是ヨリ北紀州」と刻まれているのかな・・・


刻印探しは難しい、時間も限られているので遊歩道歩きに出かけよう。 
 

二条橋が見えている。
堀川の下流方向(南側)の風景です。


夷川橋
ここから夷川橋をくぐって堀川上流へ(北へ)。
  

陽射しが強くて汗ばむほどのよい天気だ。


こんな広い場所もある。下流(南)方面の写真です。


遊歩道では結構散策している人に出合う。
 

椹木町橋
 通り過ぎてから銘板チェックに戻る。ローマ字表示があったので”さわらぎちょう”と読めました(^^;) 


下流(南)方面の風景
 ふり返ると堀川通り沿いのビルが見えている。町中の遊歩道ということがわかる。


歴史を感じるちょっと重厚な橋台が残っている橋に着く。
この橋には「堀川第一橋(中立売通り)」の銘板がある。
 

堀川第一橋の手前にあるレンガ造りの橋台です。


重厚な堀川第一橋(中立売通り)
鶴の橋「堀川第一橋」
 石造りのアーチが一際目をひく堀川第一橋は、二条城と御所とを結ぶ公儀橋として明治6年に架橋されました。今でも残るその美しく重厚なデザインは、堀川の歴史としく文化を感じさせてくれます。また、下流の下立売には、翌年の明治7年に架橋された同じく石造りのアーチ橋である堀川二橋が残されていますが、南北へ新しく拡幅されているため、その姿は橋の下からしか確認できません。第一橋は「鶴の橋」、第二橋は「亀の橋」と呼ばれ、古くから人々に親しまれてきました。(京都市)
 

通り越して「堀川第一橋」の全体像を写しました。


今日のゴール「一條戻り橋」が見えている。
 

一条戻橋
 12:50 堀川散策のゴールとした一条戻り橋につきました。この先、川沿いに公園地帯が見えていましたが、通行止めになっていて進めませんでした。
 
         伝説の橋「一条戻り橋」

 延喜18年(918)、文章博士”三善清行(みよしきよつら)がなくなった時、父の死を聞いた「浄蔵」が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていました。浄蔵は柩(ひつぎ)にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという伝説から戻橋と名付けられたといわれています。
 太平記、剣の巻きによれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱(わたなべのつな)が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送ってほしい」と頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が腕を切り落とした、と記されています。
 また、一条戻り橋は「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、平安時代の天才、陰陽師として名高い阿部清明の父である保名が殺害された場所であり、清明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。
 以上のような歴史を持つ一条戻橋ですが、現在の橋は平成7年い新築されたものです。(京都市)

 一条戻り橋から先に行けないので、ここで堀川通りへ上がる。300mほど北には 清明神社があるが時間もないので、ここから二条城へ堀川通を歩いて引き返しました。思いがけない楽しい散策となりました。

 清明神社については・はじめてお参りした清明神社 (2015/06/10)のページをご覧ください。

 12:40 二条城前でサンドイッチのランチをしてからOB会ハイキングの集合場所、二条城の東大手門前へ。OB会メンバーに合流、集合写真を撮ってから午後の部コースに出発しました。

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